さて、海長寺にはその長い歴史の中で崖崩れ以外にも、災害を受けた歴史が記録されています。
「さて、この海長寺さんには、これまでのこの地域の災害などの記録も残っているそうですが。」
度重なる災禍---------(日蓮宗:中部宗務所の㏋より)
室町時代に入り、文明年中に伽藍を焼失し、明応六年(1497)にも震災の厄に遭った。この時、貫首八世日円上人以下の僧衆が、焼津小河で遭難し悉く海嘯に没し去ったことは、九世日海上人が書かれた旧記に詳しい。現にこの記録は『日海記』と称し什宝となっているが、九年には早くも復興したので、日海師は中興の祖と仰がれている。徳川時代には宝永年間に諸堂が完備したが、明暦の暴風、宝暦・天保・安政の天災地変に多くの惨害を被った。嘉永二年(1849)には祖師堂の再建及び本堂の大修覆が成り、文久二年(1862)に至り釈迦堂が落成した。奉安する釈迦尊像は峨岳寺の頃に海中より出現した尊体で、今も牡蠣殻が附着している。貫首の入山式以外には御開帳をせず、また雨乞の本尊とされるときはその効験が著るしい。
(清水歴史探訪より)
「はい、明応六年の地震のときに、当山第8代目の貫首様がその時の震災の時に津波にのまれて亡くなった、ということが伝えられております。その次の第9代の日海聖人のときに、その日海上人が震災の惨状を文面にお残しになられております。今でも『日海記』として当山に残されて、護っているところであります。」
「はい。例えばどんなことが書かれていたんでしょう。」
「その地震の規模ですとか、津波によってどういう惨状になってしまったか、というのを事細かに書かれているという風に言われております。」
「現在の我々にも参考になることもあるかもしれませんね。」
「そうですね、この『日海記』、かなり重要な書物でして、調査のために専門家の方が見せていただきたいということも何度かございました。」