6.船宿『末廣』を訪ねて
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
清水港にそそぐ巴川の河口近くにかかる港橋のたもとに、板塀に囲まれた木造の建物があります。清水を代表する有名人の一人、清水の次郎長の住まいでもあった「船宿末廣」を復元した「清水港船宿記念館末廣」です。
いつもですと、「清水歴史探訪」をもとにしてこの「清水歴史散策」を作成するのですが、今回はエフエムしみずのご都合で私が独自にご案内させていただきます。
清水次郎長は、文政3年(1820)に駿河国有度群清水町美濃輪に生まれ、高木三右衛門の次男坊として長五郎と名付けられました。その後、母方の叔父にあたる米屋の山本次郎八の養子に引き取られました。他にも「長」のつく名の子供がいたため、次郎八の家の長五郎、次郎長と呼ばれるようになりました。
晩年には、「船宿『末廣』」という建物を今のドリームプラザの近くの清水波止場といわれるというところに建て、住んでおりました。この「船宿『末廣』」は、その当時の「船宿『末廣』」の建物の部材を使って復元したものであります。
今でもドリームプラザの近くに、次郎長宅を示す石碑が立っております。その石碑から50メートル東の水上バスの乗り場あたりが、昔の「船宿『末廣』」であります。
清水次郎長は、明治26年(1893)に74歳で亡くなりました。亡くなるときには、おちょうさんに手を握られて亡くなったとされています。「船宿『末廣』」は、おちょうさんに引き継がれ、大正5年(1916)におちょうさんが81歳の高齢で亡くなると、その後は『波止場浪漫』の主人公けんさんが跡を継ぎます。このけんさんは、「波止場のおけんちゃん」と呼ばれ、なかなかの美人であったようであります。このけんさんが亡くなる少し前に、オレンジキングと呼ばれた望月兄弟商会(スイチ)に「船宿『末廣』」を売却します。大正8年の1月の時であります。その後、「港屋」という屋号で望月一族が経営を続けていったそうであります。なお、現在のアオキトランスは望月一族の経営によるものであります。
おちょうさん
おけんちゃん
望月兄弟商会(スイチ)
その後、「船宿『末廣』」は昭和13年に桜橋の北側の鶴舞町に移築されました。鶴舞町にあった「船宿『末廣』」が解体され、部材が処分される寸前の平成13年に次郎長ゆかりの建物と分かり、その部材を残してもらい、今日の「船宿『末廣』」が復元されたわけであります。
アオキトランス本社前にあった『次郎長邸址』の石碑。アオキトランスは昔は青木運送という名で、次郎長の『末廣』を購入した望月兄弟商会の関連会社である。
買受証
買手は、スイチ一族の望月正五郎である。
下の地図を見ていただければ分かりますが、「船宿『末廣』」のあった清水波止場の一帯は海に近いこともあり、艦砲射撃や空襲で焼け野原となってしまいました。鶴舞町に移築したために戦火にも遭わず、建物が残っていたのであります。
たしか私の記憶では、現在「船宿『末廣』」の土地は、昔はスルガ銀行がありました。
ところで、上の地図を見てください。左が江戸時代の地図で、右が明治になってからの地図です。江戸時代までは、稚児橋しか、巴川に架かっておりませんでした。港橋ができたのが明治12年ですからそれまでは稚児橋しかなく、東岸は島でもないのに『向島』なんて呼ばれておりました。それから、巴川の広さは比べものになりません。