5.船宿『末廣』を訪ねるまでの道筋
1.江尻駅
まず最初は江尻駅です。『波止場浪漫』でも度々、江尻駅が登場します。江尻駅は今の江尻踏切にありました。なお、いそべ会計から江尻踏切までは、5分もかかりません。
(波止場浪漫より)
大正7 (p94)
江尻駅界隈では、戦争景気や軍人の輸送の増加で客車や貨物列車がふえたために、さまざまな問題が生じていた。住民にいちばん不評を買っているのは開かずの踏切だが、駅員のいばりくさった態度も評判がわるい。
「鉄道が開通したころはあこがれの的だったっけ。金ボタンの制服がまぶしくて・・・・・・」
「そういや、あたしもわざわざまわり道して見にいったもんだよ。海軍士官か駅員かってね。末廣も海軍さんがきてるってェと、娘たちが群れをなしておしかけたもんずら」
「お父ちゃんは海軍さんが大好きだったから」
江尻駅の停車場とよく見ると汽車が写っています。
江尻駅の駅員。金ボタン、銀章の味噌こし帽子、詰襟の制服は羨望の的でした。
関東大震災の時のプラットフォーム
2.江尻踏切の近くの巴町(馬越医院・東洋堂薬局)
江尻踏切を渡るとすぐ巴町の通りがあります。この道路、明治26年に清水と江尻を結ぶ道路として開かれ、当時は新道(しんみち)といわれたたそうです。
(波止場浪漫より)
明治2(P104)
けんの一家が向島の波止場へ引っ越したころ、けんは港橋をわたり、巴川西岸の清水八ヵ町とその先の入江町をとおって、江尻へ出かけていた。近年は向島にも人家や畑がふえ、江尻駅や大病院ができて道もととのったので、遠回りをしなくてもゆける。
3.志茂町から魚町(清水銀座)
昭和初期の清水銀座。旧東海道の江尻宿の入口から魚町をのぞんだものです。手前の道を右に行けば伝馬町、左に行けば大正橋。
(波止場浪漫より)
明治2(P109)
この界隈は江尻でも繁華なところなので、人力車や自転車がいきかっている。
初志郎は、「三業(さんぎょう)の川」のほうへ歩き出した。三業とは遊女屋、芸者屋、料理屋のことだ。粋な細格子のある家々のあいだをながれる小川は巴川へそそいでいる。
三業の川岸、遊女屋や芸者屋のとぎれた先に、髪結い床があった。
大正5(P289)
稚児橋へ出る手前には巴川へそそぎこむ小川がながれていた。「三業の川」と呼ばれるこの川辺には髪結い床がひしめいている。初志郎ゆかりの界隈に、足をふみいれる気はしなかった。
けんは大正橋をわたった。川沿いの道を向島とは反対に、稚児橋の方角へ歩く。
繁華街の江尻とちがって、こちらは小体な商店が軒をならべていた。なかに粗末な板葺き屋根がひしめく一画があり、居酒屋「白糸」はそこでもひときわみすぼらしい店だった。
旧東海道筋の清水銀座通り、その裏の巴川通りの間が昔からの歓楽街。
歓楽街をアップしてみました。大正まではここに遊郭があった?
三業の小川の名残と思われるどぶ板。
旧東海道の清水銀座に戻り、稚児橋に向かいます。
4.稚児橋付近
昔のスルガ銀行入江支店あたりから稚児橋をのぞんだもの。
稚児橋際
入江一丁目から稚児橋方面(大正末期)
入江一丁目交差点(左スルガ銀行)
稚児橋際
入江1丁目交差点から稚児橋方面
入江一丁目交差点(左スルガ銀行跡地)
5.万世橋、富士見橋、港橋
先程の入江一丁目交差点あたりから北へと旧東海道は続いております。しかし、港橋からは入江一丁目交差点あたりまでは、巴川沿いの道を歩いたのではないかと勝手に判断しました。
万世橋は、明治29年の架橋。富士見橋は、港橋だけでは間に合わなくなったため明治18年架橋、この写真は大正元年にかけかえられたもの。港橋は明治12年架橋、写真は対岸を望んだもの。
万世橋
富士見橋
港橋
萬世橋(よろずよばし)
ふじみばし
港橋
6.本町
『清水町』と書いて『しみずまち』と読むのですね。『本町』と書いて『ほんまち』と呼ぶようです。昔からの町のようです。
(波止場浪漫より)
大正2(P92)
本町は巴川の西岸にならぶ清水八ヵ町のひとつで、いにしえより港町として栄えてきた。江戸時代からつづく廻船問屋の播磨屋は、今は鈴与という屋号で向島にも店舗をかまえるようになったが、この本町が本拠地である。
左の写真は、「鈴与」さんのお屋敷です。
次郎長通り商店街(昭和8年頃)
次郎長通り商店街
港町通り(昭和初期?)
港町通り
港橋電停付近(昭和6年頃)
旧港橋電停付近
港橋電停付近(昭和40年頃?)
旧港橋電停付近