(清水歴史探訪より)
神社の境内(けいだい)にも掲げられている江尻城の図面によれば、城は巴川を水堀(みずぼり)として利用し、本丸、二の丸、三の丸等の曲輪(くるわ)が置かれていたようです。極めて実用的な戦闘基地として造られた江尻城は、比較的早い時期に廃城となった為、現在当時の姿を偲ばせる物はほとんど残っていません。しかし、目に見える遺構(いこう)はなくても、江尻城にまつわる様々な物が残されているようです。
江尻城の模型を作っている人がおりました。
(清水歴史探訪より)
「さてこの江尻城の今遺構として残っている物はあるのでしょうか?」
「ほとんどないのではないでしょうか。江尻城の石碑はつい何年か前まで東部にあったんですけれども、江尻小学校が本丸ということで江尻小学校でどうしても欲しいということでその石碑は江尻小学校に持っていかれました。ですから、石碑ぐらいで、それほど残っていない。神社としては三の丸にあったのですが、だからといって、その痕跡がどうだっていうのはわからないですね。まだ二の丸町という町名はありますけれど、そういう感じですね。」
「地名に色々残っている。それが名残といった感じなのでしょうか?」
(清水歴史探訪より)
「今の江尻東だとか、そういう町名はなかったんですね。昔は江尻19町、19町ありまして、いまだにですね私共の神社では申し訳ないんですけれども、江尻19町。19町のその町名で、いまだにですね、氏子(うじこ)組織はできています。いまの江尻東という町名ではなく、昔の鋳物師町(いものしちょう)だとか色んな昔の町名で区分されちゃうんですね。
今の町名では、紺屋町もないし、清水銀座は銀座といっていますけれども。昔は、魚町(うおまち)とか、さかなまちですね。そういう町名がなくなってしまったのが非常に残念なことだなと思いますね。
ですから、城郭(じょうかく)の一環としてですね、そういう町があったということ自体が------。
鍛治町があったり、鍛冶がいたから鍛治町、鋳物師がいたから鋳物師町。魚屋がいたから魚町等、そういう町名が全然なくなっちゃったんですね。天神町、天神さまかなんかがあったんですよね。天神町、小芝町、伝馬町。やっぱりいまだにですね、私達は旧町名、江尻19町で、天神町など呼ぶようにしていますね。」
「お城を中心として、皆さんの生活があったという名残ですね。」
「そうですね、江尻城があって、-------。巴川の向こうの入江へ行くとあんまり関係ないんですね。入江方面は、江尻城に関してはそれほどなんにもないんじゃないでしょうか。」
「では江尻城に関連していたのは巴川からお城側だったわけですね。」
「そうですね、巴川からお城側だけではなかったかなと思いますね。」
江尻城があったことを記念する石碑は、本丸の跡地に建つ江尻小学校に。そして城下町だった名残は、江尻19町として、現在も小芝神社の氏子の間に伝えられていました。城の守護神、そして、勝利の神としても崇敬(すうけい)された小芝神社は、戦乱の世もかなたになり平和な時代になった今、また、新たな形で人々の崇敬を集めています。