9.鉄舟寺を後にして
(清水歴史探訪より)
清水の。そして日本の歴史の一端を見てきた鉄舟寺は、有度丘陵の麓(ふもと)、鳥たちのさえずりに包まれながら佇(たたず)んでいます。
お話は、臨済宗妙心寺派鉄舟禅寺住職の香村俊明(こうむらしゅんみょう)さんでした。
清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~
お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近く、さつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。
いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
鉄舟寺を見学した後、言いなり地蔵さんへお参りに行ってきました。
山岡鉄舟の死にざま
私も66才となり生き方だけでなく死にざまにも興味がでてまいりました。今回、山岡鉄舟の死にざまをいくつかのブログで拝見しました。
1.ガンと診断されても痛いと言わず、いつもニコニコしていた。
2.死ぬ前に風呂に入って体を清めた。
3.白装束に着替え、左手に数珠、右手に団扇 (うちわ) を持って死ぬ準備をした。
4.見舞いに来た勝海舟としばらく世間話をした後、「只今、涅槃 (ねはん) に入る」 と告げた。
5.時世の句「腹痛や 苦しき中に 明け烏(からす)」を読んだ。
6.横臥せず座禅を組んで亡くなった。
どれ一つとっても私にはできそうにありません。
東海大学と鉄舟寺
東海大学は、松前重義によって静岡県の清水に設立された大学である。設立当初、鉄舟寺を学生寮に使用していたこともあり、建学の歌には鉄舟寺の名前も出てくる。
建学の歌
松前 重義 作詞
信時 潔 作曲
一.声なく教う富士ヶ岳 海濤(かいとう)叱咤(しった)す太平洋 三保の松ヶ枝(え)下にして 我等(われら)が母校ここにあり | 二、馨(かお)りは高し鉄舟寺 偲(しの)べ古武士の面影を その殉国の誠をば 先哲の声ここに聞け |
三、古き歴史の濁流を せきて止(とど)めて清めてん 思想と科学と技術とに いそしむ健児ここにあり | 四、歴史の波の高きとき なやみの谷の深きとき 進め希望の星仰ぎ 我等が行くてここにあり |
も う 一 つ の 義 経 の 笛
(須須神社…珠洲市三崎町寺家)
源義経一行が珠洲岬の沖合で暴風に遭った際、海上守護神の三崎権現(須須神社)に必死に祈ったところ、風が止んで難を逃れた。そのお礼に須須神社へ参詣し、義経が「蝉折の笛」、弁慶が「守刀」を奉納した。
なお、うっかり膝より下に置いたところ、笛が無礼をとがめたのか節のところで蝉が折れてしまったために、以降「蝉折」と呼ばれたという。
国 宝 ・ 久 能 寺 経 の 歳 月
「平家納経」や「慈光寺経」と共に、日本三大装飾経と呼ばれる国宝「久能寺経」は、いまだ多くの謎に包まれております。この本は、静岡市の書道家、良知文苑(らちぶんえん)女史によって、 鳥羽天皇中宮の待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)と歌人西行の生涯をたどり、その謎を迫るものです。 では、各章ごとに解説を してみたいと存じます。
年代順には、『久能寺経』→『平家納経』→『慈光寺経』となります。
第一章 田中親美芸術
昭和23年GHQの命令で、文化財の調査にあたった加藤忠雄氏が田中親美翁に『久能寺経』の複本制作を依頼します。この章では、田中親美翁や加藤忠雄のことや複本制作に関することが事細かく記載されております。経品の模写がいかに大変でどのように行うかが記載されております。
・・・・・・・「やはり、視えなくなっていましたね。しかし、心眼ですね。」
第二章 補陀落(ふだらく)の山
「西の補陀落」熊野に対して、「東の補陀落」久能寺は平安貴族たちが極楽浄土に往生することを願い、法華経を書写し、施入するにふさわしかった。『久能寺縁起』によると平家の一門が久能寺を崇め(あがめ)て、重宝を納めたとあり、その後の山火事と寺宝についての記載もあります。
またこの章には、『久能寺経』の寺からの流失、久能寺の移転、久能寺の廃寺、その後の山岡鉄舟による再興なども記載されおります。
・・・・・・・・(廃仏毀釈により)天平時代の古写経は荒縄で束ねられて一束五円で売られたという。
第三章 待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)
『久能寺経』は、平安時代の貴族による写経である。その中心人物が、待賢門院璋子、藤原璋子である。公式には、藤原 璋子(1101-1145)は、鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母。女院号は待賢門院となっているが、・・・・・。
①璋子(たまこ)の実の父母は、藤原公実(きねざね)と光子。両親ともに天皇家に近く、容顔華美なり。
②璋子(たまこ)の養父は白河法皇(1053-1129)で、養母は祇園女御(白河殿)。
③祇園女御は、人妻であったが白河法皇に目を付けられ、夫は無実の罪で流刑。祇園女御は白河法皇のものになる。
④璋子の養父・白河法皇は璋子とは歳の差48才で、最初は娘として溺愛。その後は女のとして溺愛。
⑤璋子17歳、白河法皇の孫鳥羽天皇15歳の時、入内(にゅうだい:結婚)。いとこ同士であった。
⑥鳥羽天皇(1103-1156)の第一皇子『崇徳帝(すとくてい)』は実は、白河法皇と璋子の子??。
⑦保元4年(1123)白河法皇の意により、22歳の鳥羽天皇は5歳の崇徳天皇に位を譲られる。
さらに、第四章、第五章には
⑧ 大治4年(1129)白河法皇崩御
⑨長承2年(1133)鳥羽上皇のもとに勲子(いさこ)入侍(にゅうじ)
⑩翌年には、鳥羽上皇のもとに得子(なりこ)入侍(にゅうじ)
⑪保延5年(1139)鳥羽上皇と得子(なりこ)の間に体仁(なりひと)親王(近衛天皇)誕生
⑫この体仁(なりひと)親王を、鳥羽上皇の子崇徳天皇の養子とし
⑬崇徳天皇の子、重仁(しげひと)親王を得子(なりこ)に引き取らせ
⑭永治元年(1141)鳥羽上皇の意により崇徳天皇は3歳の近衛天皇に位を譲る
⑮さらに璋子(たまこ)の死後、鳥羽法皇崩御の直後、保元元年(1156)には保元の乱。
かように、細かな人間関係(男女関係)を省略しても、平安王朝はどうにもこうにも複雑な関係だったようであります。
この章の後段は、当代きっての待賢門院璋子の和歌が残されていないことの謎解きであります。
・・・・・・・・とあるブログより
この待賢門院璋子が平清盛と関係があるんです。それは同じく白河院寵愛の祇園女御をはさんでのこと。祇園女御は璋子を養子にしてそこに院が通っていたのです。清盛の母は祇園女御の妹とされ、清盛は白河院の落胤説があるほどですから、院やこれからの女性と親しい関係で成長しています。ですから、おそらく清盛は、院や璋子が国宝「源氏物語絵巻」や「久能寺経」を作成した事件は身内のような皮膚感覚で受け止めて育ったことでしょう。「久能寺経」が「平家納経」に似ていて当然だったのです。
第四章 欣求浄土(ごんぐじょうど)
インドで「末法思想」が生まれやがて日本へ。やがて浄土信仰が盛んになり『妙法蓮華経(法華経)』は「経は、法華経さらなり」と枕草子に述べられるよになる。
大治4年(1129)白河法皇崩御。この章では、白河法皇崩御による法要、当時の仏教思想、仏教行事、白河法皇追善の寺院建立などや璋子の白河法皇に対する思いなどが記載されている。
・・・・・・・天台沙門(しゃもん)源信、往生要集(おうじょうようしゅう)を撰す。天下に流布せり。
第五章 えにし
①西行慕情・・・歌人として有名な西行(1118-1190)は18歳で北面の武士、23歳で出家。実は20歳の頃、待賢門院璋子に思慕の情??
②女院落飾(にょいんらくしょく)・・・鳥羽上皇と得子(なりこ)との間に体仁(なりひと)親王が出産。崇徳帝(璋子の子)が23歳の時に5歳の体仁親王(近衛天皇)に譲位をするよう院宣。璋子は落飾(髪をそり落として仏門に)
③西行勧進・・・西行は璋子が浄土の道を進むよう願い、鳥羽院・崇徳院の両院をはじめとする貴人のみなさまに『一品経(いっぽんきょう)』行うよう勧進。『一品経』とは、法華経二十八品に開経、結経を加えた三十巻を一人一品ずつ写経することである。
④二人の法華経歌・・・西行と藤原俊成が法華経に和歌を添える。
⑤花散る・・・待賢門院璋子崩御。西行の流浪の旅。
・・・・・・・・西行の述懐・・駿河の久能寺の辺りであろうか、彼方に煙たなびく富士を見て、すべては行くつく所へ行く、すべては成るようになると・・・
第六章 『久能寺経』の考察
『久能寺経』は、共に仏と縁(えにし)結ぼうとした三十人が、一品(いっぽん)ずつ法華経を写経したものである。写経料紙には思い思いの装飾を施してあり、経巻の末巻には結縁者名(けちえんしゃめい)や官名が記されている。待賢門院を中心として、鳥羽院や女御、白河法皇の皇女、また、彼らに仕えた女房や延臣等ゆかりの貴人たちのながみえる。
・・・・・・・西行の勧進で、鳥羽院や崇徳院をはじめ貴族たちが、それぞれ自筆、または代書によってお経を書き写されたことは明らかである。
第七章 王朝の華
『久能寺経』の脾兪品(ひゆほん)の結縁者が待賢門院璋子である。代筆者は藤原定信とされる。この章では『久能寺経』の筆を始め料紙などの説明を、書家『良知文苑』として行っている。
・・・・・・・・『久能寺経』の装飾は、贅の限りを尽くし、細かい部分まで過度と思われるほどに入念に凝って造形されている。
第八章 『久能寺経』流転
この章では、『久能寺経』流転の歴史を細かく記載されている。
・・・・・・・・平安貴族の念いは、長い歳月を経ても少しも褪せることなく、今に伝えられているのである。