明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫(きごう:毛筆で書くこと)して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。
西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。
剣、次郎長が刀でかかろうとしたが、足がすくんで動けなかった。
禅、東京から三島までの30里(120km)、3年間、歩いて通った。
書、頼まれれば書いた。謝金は貧乏人に惜しまず配った。
最後に、西郷隆盛の山岡鉄舟の評を『金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ。そういう人は始末に困る。しかし、そういう人でなければ天下の偉業は成し遂げられない』
(清水歴史探訪より)
さらに明治維新の荒波がこの寺を襲いました。
「さて、現在は鉄舟寺という名前になっているわけなんですが、名前が変わったのはどういうことからだったでしょうか?」
「これは廃仏毀釈ですね。明治の時代に入って、仏教寺院が迫害にあって、このお寺も潰しちゃうということになったものです。住職もいなくなって、お寺の体裁が保てないぐらいに、傷んでしまいました。
お寺を復興する為に、山岡鉄舟さんが、山岡鉄舟さんは廃藩置県の頃に、静岡県権大惨事、県の副知事みたいなお仕事をやっていたわけですが。その山岡鉄舟さんが応援をしてくれた。古い歴史のある久能寺を鉄舟寺という寺号に、お寺の名前に改めて、今日までお寺が存続できるような支援をしてくださったわけです。だから鉄舟寺という名前、鉄舟禅寺という名前。山岡先生のお力と山岡さんの人格によって、こういうお寺が造り上げられたと思いますね。」