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3.幕末三舟の一人、山岡鉄舟と鉄舟寺
幕末の三舟について
 
 私の子供の頃は、有名でしたが、今ではほとんど知られていない『幕末の三舟』という言葉。『幕末の三舟』というと、勝海舟、高橋泥舟そして山岡鉄舟であります。この内、最も有名なのが勝海舟。そして、最も知名度が低いのが高橋泥舟。この三舟について、少しだけ紹介させて頂きます。
勝海舟(1823-1899)
  勝海舟は、江戸本所に生まれ、剣、禅、兵法だけでなく蘭学を学んだ。貧しくて、生きるも学ぶも真剣で、『日蘭大辞典』を年間10両で借り、二冊分を写し、一冊を30両で売却し費用や生活費にあてたという。長崎海軍伝習所にて教監を務め、オランダ教官との連絡役も務めたという。万延元年(1860年)咸臨丸で日米修好通商条約の批准のため、艦長の次の指揮官として渡米。なお、咸臨丸は、「日の丸」を最初に外国に示した。
 慶応4年(1868年)官軍の東征が始まると、勝海舟は陸軍総裁として、『江戸城無血開城』を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。まず、山岡鉄舟を駿府の西郷との交渉に送り、『江戸城無血開城』の基本条件を整える。その後、江戸城総攻撃の直前、勝と西郷が江戸の薩摩屋敷で会談、『江戸城無血開城』が決定。
 明治維新後、旧幕臣の代表として数々の要職に就き、爵位にも叙された。徳川慶喜のために尽し、旧幕臣の世話や西郷隆盛の名誉回復、上野の『西郷さんの銅像』建立にも努力した。龍馬、西郷からは高い評価を受ける一方、女好きで毒舌家、大ぼら吹きとも言われた。勝を師と仰ぐ、徳富蘇峰も勝の放言には閉口し、「惜しむらくはああまりにも多弁」と書き残している。
 ブランデーを飲んで脳溢血になり死去。最後の言葉は「コレデオシマイ」だった。
高橋泥舟(1835-1903)
 江戸にて山岡正業の次男として生まれる。母方を継いで高橋性となる。槍の名人で神業に達したと評判であった。山岡家の養子となった山岡鉄舟(旧姓小野)の義理の兄。
 慶応4年、幕府が鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍・慶喜に恭順を説いた高橋泥舟は、慶喜の護衛の任についた。当初、勝海舟は西郷隆盛への使者に「誠実かつ剛毅な人格」を見込んで高橋泥舟に白羽の矢を立てた。泥舟は自分の代わりに山岡鉄舟(元・小野鉄太郎)を勝海舟に推薦し、鉄舟がその大役を果たした。
 江戸城無血開城後は、慶喜に従って地方奉行などを務めた。廃藩置県後に職を辞して東京へ戻り隠棲して書画骨董の鑑定で後半生を過ごした。三舟の中でもっとも名度の低い高橋泥舟は槍一筋に生き、主君・慶喜が最も信頼し片時も離さなかった為に歴史に名を残すことが出来なかった。
 しかし、三舟の中で、もっともサムライらしい人物である。
山岡鉄舟(1836-1888) 
 蔵奉行小野朝右衛門の四男に生まれる。通称は鉄太郎、(いみな:本当の名前)は高歩(たかゆき)。母は、塚原卜伝の子孫である。9歳から剣の修業を、13歳から禅の修行を始める。剣禅一如。
 山岡鉄舟 の名を高めたのは、『江戸無血開城』の使者になったことです。使者に選ばれた時、鉄舟は刀がないほど困窮していた。官軍の陣営に向かった際、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で歩行していったという。駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
 1.江戸城を明け渡す。
 2.城中の兵を向島に移す。
 3.兵器をすべて差し出す。
 4.軍艦をすべて引き渡す。
 5.将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒否し、なんとか、西郷に承諾させた。これによって『江戸無血開城』がすみやかにおこなわれたのである。

 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫(きごう:毛筆で書くこと)して与えた。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。

 西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。

 、次郎長が刀でかかろうとしたが、足がすくんで動けなかった。

 、東京から三島までの30里(120km)、3年間、歩いて通った。

 、頼まれれば書いた。謝金は貧乏人に惜しまず配った。

 最後に、西郷隆盛の山岡鉄舟の評を金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ。そういう人は始末に困る。しかし、そういう人でなければ天下の偉業は成し遂げられない

若い時の山岡鉄舟
西郷・山岡会見の史跡碑
静岡市葵区伝馬町のベガサートの脇に、史跡碑があります。松崎屋源兵衛宅で会見が行われました。
西郷・山岡会見の想像図
西郷・山岡の会談は交渉というよりも、山岡の一方的な懇願が中心だったようです。
晩年の山岡鉄舟

(清水歴史探訪より)

さらに明治維新の荒波がこの寺を襲いました。

 

「さて、現在は鉄舟寺という名前になっているわけなんですが、名前が変わったのはどういうことからだったでしょうか?」

「これは廃仏毀釈ですね。明治の時代に入って、仏教寺院が迫害にあって、このお寺も潰しちゃうということになったものです。住職もいなくなって、お寺の体裁が保てないぐらいに、傷んでしまいました。

お寺を復興する為に、山岡鉄舟さんが、山岡鉄舟さんは廃藩置県の頃に、静岡県権大惨事、県の副知事みたいなお仕事をやっていたわけですが。その山岡鉄舟さんが応援をしてくれた。古い歴史のある久能寺を鉄舟寺という寺号に、お寺の名前に改めて、今日までお寺が存続できるような支援をしてくださったわけです。だから鉄舟寺という名前、鉄舟禅寺という名前。山岡先生のお力と山岡さんの人格によって、こういうお寺が造り上げられたと思いますね。」

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