(清水歴史探訪より)
「今見えているのは復元したものです。この地下に当時の物がそのまま入っています。石棺の周囲にこう板状の石を積んで、造るというのがこの竪穴式石室。あるいは竪穴式石槨(せっかく)とも呼ばれていますけれどもそういう技術ですね。」
「では埋葬したら上から土を被せて、出入りはできないということですね。」
「そうです」
ところで、棺を納めた石室の天井には巨大な石が使われています。この石からも当時の土木技術の水準がわかるそうです。
「これはどこから持ってこられた物なんですか?」
「これはですね、伊豆の方からじゃないかと言われてますね。古い報告書なんかを見ますと、この割石なんかは富士川の河口と書いてありますけれども。最近のみてもらった説だとどうも伊豆ではないかという話があります。」
「ここから伊豆までかなり距離がありますね。」
「そうですね、だから船かなんかで持ってきたと思われますけれどもね。」
「当時それだけの航海技術もあったわけですか」
「そうですね、古墳を作るということ自体がその技術がこの地域に来たということだもんですから。航海の技術から、土木の技術もそうなんですけれども。この前方後円墳、くびれてる部分が両方にありますけれども、このくびれた部分が今のレベルで計っても3センチから4センチの誤差しかないんです。当時どうやって計り出したか、という。それだけ正確に計り出してくる技術がこの時代にもうあったということですね。」
「そんな古墳に埋葬された方というのはどんな方なんでしょうか?」
「一応埋葬されていた方は、骨の分析から比較的若い成人男性と考えられています。ちょうど五世紀の初めぐらいなものですから、たぶん地名からですけれども廬原(いおはら)氏なのではないかと考えらています。」
(注)この庵原という地域は,奈良時代以前に廬原(いおはら)国と呼ばれたとする古い記録があります。
「当時もやはり住みやすい場所だったのでしょうか?」
「多分そういう場所だったと思います。と言いますのは、庵原の道路を造ってますけれども、そこではですね、弥生時代くらいから近世まで水田がずっと面々と何層にもわたって出てきます。ですからそういう所で田んぼを作って、それからちょっと小高い所で生活をして、そしてこういう山の上にこういう古墳を作っているということが考えられます。」
当時、既にこの地域には、土木技術や 航海術等、様々な技術が伝えられていたようです。その技術を生かして、この付近には豊かな集落が広がっていたのかもしれません。
「ところで、この古墳はどうして発見されたのでしょうか?」
「昭和31年にですね、この辺ずっと一帯が蜜柑の畑で、この石室の部分の蜜柑が育たないと実際に掘って見たら大きな石があったと。それで当時、庵原村ですね。そこにそういう連絡が入って、庵原村から静岡大学さんですとか、明治大学さんに連絡が行って、昭和33年です。庵原村で発掘調査をするということになったわけです。」