(清水歴史探訪より)
重要な街道沿いには、様々な歴史の秘話が残されていますが、この高源寺にも、鎌倉時代のある武将の供養碑が祀られています。
「本堂の左手の方へやってまいりました。こちらにはどんなものがあるんでしょうか?」
「はい、こちらが梶原一族の供養碑と伝えられております。」
「屋根を掛けられた茶色い色をした石碑がありますね。」
「こちらは随分古い物となります。正式な年代はありませんが、書にですね。『不尽乾坤燈外燈龍没(ふじんけんこん とうがいのとう りゅうぼっす』と刻まれております。」
「それはどういう意味なんでしょうか?」
「こちらはですね、梶原景時のことに遡るんですけれども、その歴史をお話させて頂いてからの方がよろしいかもしれません。梶原へいざ、へいぞうとも申しますけれども、梶原影時。鎌倉時代はですね、武将であります。石橋山の合戦において、平家の武将でありながら、敵の大将である源頼朝を助けて、これが縁で、頼朝に重く用いられた方であります。源義経との確執で有名でありますけれども、鎌倉本体の武士と、当時から評判がとても高かった方でありました。
(清水歴史探訪より)
ただ、頼朝の亡くなった後、たくさんの武将の反感を買ってですね、後の二代目の将軍、頼家によって鎌倉を追放されました。
この景時一族は、1200年、正月、館のあった相模の国の一の宮を出発し、西国の所領に向かって行きます。その途中、現在清見寺さんがございます、清見ケ関を抜け、この高橋付近を通過致しました。
この地域の豪族、飯田五郎家義という、富士川の合戦で活躍して、頼朝から本朝無双の勇士なりと言う風に称された勇将。また戦国時代に、毛利家と共に活躍する吉川(きっかわ)家の祖であります。吉川友兼(きっかわともかね)、また入江一族、蘆原(いはら 今では庵原)氏、工藤氏、三澤氏、渋川氏、船越氏、矢部氏、大内氏、この辺りの地名になっておりますけれども、その武将たちと戦いました。
梶原景時の一族とその郎党、33名はこれらの武将と戦って、一族郎党合戦し、梶原景時とその長男、梶原景季(かげすえ)、次男、梶原景高(かげたか)は現在の梶原山にて自害したと、伝えられております。
この供養碑、街道筋で、さらし首にされたところに建てられた後、高源寺に移されたようであります。
正面の句、先程申しました『不尽乾坤燈外燈龍没』唐の詩人の作として伝わっておるものから、取らえたものであります。『不尽乾坤』とは永遠の尽きない大地と同じように、この龍、龍を景時とたとえられておるんですけれども、景時の名前のようにずっと消えずに残っていくだろうというような言葉で伝えられております。
(注)不尽とは「つきない」という意味があり、乾坤とは「天と地」という意味がある。
したがって、「天と地がつきないように」という意味になります。
横には、33人是也(33人これなり)と彫られております。33人も同じように名前が残されていくであろうということで、こちらの方に彫られていることと思います。梶原一族と、その郎党、さらし首にされた33名と伝えられております。
近所のお宅のですね、所に墓地として残されている物がございます。ご遺体自体は直接埋められた場所とかはっきりしておりませんけれども、現在残されている墓地として残されていると、言い伝えがあります。
梶原景時自体はもちろん、長男の梶原景季(かげすえ)も首、体共に京都ですとか、関東、鎌倉の方に移動されたようであります。そして、そちらの方で街道筋、また京都でさらし首になったと伝えられております。
供養碑の右側にですね、小さなお地蔵様が建ってらっしゃいます。こちらは『うなり地蔵』として、伝えられております。
梶原景時の家臣のまた忠僕ですね、悲しい話として伝えられております。梶原景時の臣、名前は残されておりませんけれども、家臣も梶原景時と共に滅亡したんですが、その家臣もまた忠僕ですね、家臣。主人の後を慕ってこの高橋まで訪ねて来られました。しかし、その主人は無く、悲しみのあまり病死してしまったと伝えられております。
現在のこのお地蔵様。多少新しい物でありますが、以前の物は朽ち果ててしまったという事で、別の近所のお宅にあった物をこちらに新しく建てた物が現在のうなり地蔵様になります。
梶原景時は、義経との確執で随分悪役に描かれることが多いんですけれども、当時の京都からもとても評判がよろしかったようでありますし、後の武将、秀吉ですとかそういった方からとても参考にされた武将であったと伝えられております。」
「東海道も色々位置を変えているというお話しがありましたけれども、昔からこの辺りというのは、そういった交通あるいは軍事的な要衝だったんですね。」
「はい、清見寺さんに清見ヶ関にですね、関所ができる、あちらはどこを通ってもあそこしか抜けられる場所がないということで、関所が造られたわけであります。当時は、水に浸からない場所を街道にしていた。このお寺の近辺の前はもっと山の方に街道(=古代東海道)があったと伝えられておりますけれども、鎌倉時代、そして室町時代の頃はこの北街道(=鎌倉街道)がですね、が東海道(=中世東海道)ではなかったかと言われております。」