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2.義経と梶原平三景時の話
  私の事務所の職員にたずねたところ、予想外に梶原平三景時の名前すら知らない人が多かったです。義経はあまりにも有名なのに、本来、義経と対極にあった梶原平三景時はあまりにも無名でした。そこで、改めて義経と梶原平三景時について説明します。
 源 義 経
 
 幼名は牛若丸うしわかまる。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられる。後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じた。
 一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。秀衡の死後、頼朝の追及を受けた
館で自刃し果てた。
  その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
 

梶 原 平 三 景 時

 

 梶原景時(かじわら かげとき)は、石橋山の戦いで敵の大将であった源頼朝を救い、後に頼朝の御家人となる。頼朝の信任厚く、教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出され、「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。

 一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。

 
 
宇 治 川 の 戦 い
 
 1183年(寿永2年)数万騎を率いて入洛した木曽(源)義仲は、後白河法皇と対立し、統制がとれていない軍は京で乱暴狼藉を繰り返した。
 後白河法皇は義仲に平氏追討を命じ西国へ出陣させると同時に、鎌倉の
源頼朝に、上洛を促した。頼朝の弟源義経が近江国にまで進軍。一方の義仲は、法住寺殿を焼き討ちし後白河法皇を幽閉した。
 頼朝は
義経に義仲追討を
命じ、ここに宇治川の戦いが始まる。
 戦後、義経らの武将は戦勝を鎌倉へ報告したが、いずれも「勝ちました」程度の簡単なものであった。ところが、景時の報告書は、義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果を記してあった。
 宇治川の戦いでは、梶原景時の嫡男・梶原景季(かげすえ)と佐々木高綱との先陣争いが有名。
 
 
一 の 谷 の 戦 い
 

 木曽義仲と源義経戦い間に勢力を立て直した平氏は、かつて平清盛を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。

 後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。

 源氏方は範頼(のりより:頼朝の弟、義経の兄)が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手(からめて)軍1万騎を率いて京を出発した。なお、大手軍は正面から搦手軍は背後から敵を攻める。

 この一ノ谷の戦いでは最初は梶原景時義経の侍大将、土肥実平が源範頼(のりより)の侍大将になっていた。しかし、義経と梶原景時の気が合わず、梶原景時は源範頼(のりより)の侍大将になっている。範頼の大手軍に属した景時、景季(かげすえ)、景高父子は、大いに奮戦して「梶原の二度駆け(二度も敵陣に突入)」と呼ばれる働きをした。

 一の谷の戦いは、義経の一の谷の断崖絶壁からの「逆さ落とし」と呼ばれる奇襲により源氏の大勝となる。

 

 到底は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問いた。冬場に鹿は越えると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と、断崖を絶壁下った。

 

 
 
屋 島 の 戦 い
 
 平安時代の末期、源範頼(のりより)は平氏討伐のため鎌倉を出発し、中国地方から九州への遠征に出た。この時点では、義経は頼朝の勘気を受けて平氏討伐から外されていた。
 ところが、源範頼(のりより)の苦戦により、元暦元年(1185)、頼朝は義経の起用を決め讃岐国屋島(香川県)の平氏の本営を衝かせることにした。 
--逆櫓の松 (さかろのまつ)
 義経の軍に属した梶原景時は兵船に逆櫓をつけて進退を自由にすることを提案した。義経が反対すると、梶原景時は「進むのみを知って、退くを知らぬは猪武者である」と言い放ち義経と対立した。いわゆる、逆櫓論争である。
 2月、義経は暴風の中をわずか5艘150騎で出港して電撃的に屋島を落として、梶原景時の本隊140余艘が到着したときには平氏は逃げてしまっていた。梶原景時は「六日の菖蒲と嘲笑された
 (注)六日の菖蒲、十日の菊とは、菖蒲(あやめ又はしょうぶ)は五月五日の端午の節句に用いるもので、五月六日では間に合わない。また、菊は九月九日の重陽の節句に用いるもので、九月十日では間に合わないことから。時機に遅れて役に立たないことのたとえとして用いる。今では、26日のクリスマスケーキとでもいうかもしれません
 
 この戦いでは扇の的の話が有名です。
 源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。

 与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢(かぶらや:射放つと音響が生じる)を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。

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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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