(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
清水区内を横切る東海道。そのルートは、時代によってさまざまに変化していたようです。現在の高速道路や新幹線も、その末裔と言えるでしょう。そんな高速交通路に挟まれた清水区高橋にある、臨済宗妙心寺派の古刹、高源寺は、鎌倉時代の東海道に面していました。
副住職の守永俊光(しゅんこう)さんを訪ねました。
「お寺を開いた和尚さん、いわゆる開山様が仏満禅師(?-1368)、別名、大喜法忻(だいきほうきん)禅師と申し上げます。時代は鎌倉時代から室町時代へ移る頃、開山様はこの足利氏の系統に属する静岡の大名で有名ですけれども、今川氏の出身であります。父は今川基氏(もとうじ1259-1323)、弟(5男)は今川範国(のりくに1297-1384)。今川家の家督を継いだのが弟(5男)の今川範国(のりくに)になります。仏満禅師(4男)は、開山として、たくさんのお寺を開きましたけれども、高源寺もそのお寺の一つとなります。
(注)仏満禅師は、号(ごう)を大喜(だいき)、諱(いみな)を法忻(ほうき)といい、駿河今川家初代今川範国(のりくに)の兄弟に当たります。仏満禅師を開山又は、勧請開山と称される寺院が13も有り、鎌倉五山の内、寿福寺以外の建長寺・円覚寺・浄智寺・浄妙寺を歴住し、「本朝高僧伝」によると、当時の道俗でその名を知らぬもの無と書かれた高僧だそうです。ところで、号とは称号の略で今ではペンネーム?諱(いみな)は忌み名とも書き、本当の名前のことで、生きている間は人前で言っていけないそうです。ですから、仏満禅師という字(あざな:ニックネーム?)で呼んでください。
お寺を作った方を、開基と申します。お寺を建てる為に、財とか土地を寄進した方。お寺の開基様は、高橋孫太郎維之(これゆき ?-1223)と申し上げます。承久の乱(1221)の京都攻めに軍功を建てて、鎌倉幕府からこの高橋の地に三万石賜ったと言われております。1223年に亡くなっております。源頼朝の時代に活躍した、この地域の豪族だったと言われております。
(注)「開基(かいき)」は、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、ないし世俗在家の実力者を指す語であります。これに対して、「開山(かいさん)」とは、寺院を創始することを指す仏教用語であります。
そして、高源寺の初めの和尚、一番最初に記録に残っている和尚様として広川(こうせん)和尚がいらっしゃいます。この方は、1272年に亡くなっておりますので、年月を経てから仏満禅師、開山様をお迎えして、高橋孫太郎維之(これゆき ?-1223)の追善(死者の冥福を祈ること)の為に、造り変えたのかもしれません。
(清水歴史探訪より)
このように、高源寺は禅が日本に伝えられた初期の頃からの地域の人の拠り所として栄えてきた、鎌倉の系統の臨済宗のお寺でありました。
この清水の地域のお寺さんはですね、比較的東海道の影響がありまして、時期によってですね、お寺が建てられる時代時代で、地域が固まっております。この辺りに、たぶん東海道があった時代、高源寺がまたこの北街道沿いにある多くのお寺が建てられたと言う風に伝えられております。この住所、高橋の系統にもいくつかの系統がありますが、この高橋孫太郎維之という方は、藤原氏の系統に属しているという風に伝えられております。」