第十九話 梶原景時の眠る高源寺
臨済宗妙心寺派 高源寺
住 所 静岡県静岡市清水区高橋2丁目7番4号
電 話 054-366-2410
場 所 バス停「高橋」(梅ケ谷線は「高橋4丁目」)にて下車。
バス停から徒歩1分程です。
目 次
源頼朝の命により整備された中世の東海道である北街道を、「鎌倉街道」と呼ぶ人がおります。今日は、この鎌倉街道にある高源寺を訪ねてみました。この高源寺には、鎌倉時代初期の武将、梶原平三景時が眠っております。
梶原景時は、源頼朝に対する忠義心が強く、都の貴族からは、『鎌倉本体ノ武士』と称されていたようです。
一の谷の戦いでは、最初は梶原景時は義経の侍大将でした。しかし、折り合いが悪く途中から源範頼(のりより)の侍大将に代わっております。屋島の戦いでは、義経と梶原景時は逆櫓論争を起こし、義経が屋島を落とした後、梶原景時は「六日の菖蒲」と嘲笑されます。壇ノ浦の戦いでは、梶原景時は先陣を希望したところ、聞き入れてもらえず、義経の郎党と梶原景時父子は斬りあう寸前でした。
国民的人気抜群の悲劇の英雄義経(写真は、平泉の義経)。一方、チクリの梶原景時。しかし、実際は?
まず義経は、『吾妻鏡』によると「義経の独断とわがまま勝手を恨みに思ったのは梶原景時だけではない」と記載されております。さらに、源頼朝に対して弁護をした人物が見当たらないことや、何よりも義経が源頼朝に反旗を翻し挙兵したが、兵が集まらず失敗したことからみて、予想外に人気がなかったのではないか?
一方の梶原景時は、源頼朝のために憎まれ役を買っていただけではないか?実務能力・事務能力に秀で和歌を好んだ文化人の梶原景時は、将軍源頼朝の信任厚く、善人とはいえないまでも優れた官僚だったのではないか?
忠臣蔵の悪役、吉良上野介 も実際には、名君だったという話だし?
境内に年を経た石碑があります。正面に『不尽乾坤燈外燈龍没(ふじんけんこん とうがいのとう りゅうぼっす)』と刻まれております。横面には『三十三人是也』とあります。これは、梶原一族の供養碑として本堂とともに市の重要文化財になっております。この供養碑は街道すじで、さらし首にされたところに建てられた後、高源寺に移されたそうです。
明治以前に久能寺という密教系のお寺がありました。飛鳥・奈良時代から続く古刹で現在の鉄舟寺の前身となります。久能寺は明治五年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、寺院を維持できなくなったため、建物などを処分しました。今の高源寺の本堂はこのとき久能寺から買い取ったものです。解体した建物をイカダに組んで巴川の下流から運んだといわれています。
皆さんは、和時計って見たことありますか?昔の時間の数え方に合わせたとっても複雑な時計です。
現在使われている時間の数え方は定時法といって、昼夜など関係なく1日を等分して時間を決めております。これに対して、日の出から日没までを昼とし,日没から日の出までを夜として,それぞれを六等分して時を決める方法を、不定時法といいます。
和時計(わどけい)は、日本の江戸時代から明治初期にかけて制作・使用された時計のことで、不定時法を用いるための機構を持つ世界でも珍しい時計であります。
高源寺を後にしてから、梶原景時が自害したといわれる梶原山に行ってみ ました。梶原山は、静岡市の中心葵区と清水区に位置し、標高279メートルあります。平成9年(1997)4月、旧静岡市と旧清水市が共同で梶原公園として整備されました。展望台に立つと、眼下に静岡市葵区・駿河区と清水区の市街地が広がり、 良く晴れた日には、富士山から三保半島、駿河湾、遠く伊豆半島まで望むことが出来ます。夜景もきれいです。