(清水歴史探訪より)
赤い靴の女の子の物語は、野口雨情の童謡、『赤い靴』で広く知られるようになりましたが、そのモデルになった女の子については、まだあんまり知られていないようです。もう少し、照澤さんの案内に耳を傾けてみましょう。
(清水歴史探訪より)
「かよさんは、きみちゃんを連れて羊蹄山(ようていざん)の麓にある北海道虻田郡留寿都村(あぶたぐんるすつむら)というところに開拓事業団として、入植しようと決意しました。ところが、極寒の地にきみちゃんを連れて行くのはとても無理だと判断しました。
函館に住んでいる時に、札幌の教会にいるアメリカ人の宣教師ヒュエット夫妻にきみちゃんを養女として預けます。
そして、函館で知り合った鈴木志郎さんと結婚しまして、留寿都村で開拓事業団として2年間頑張りますが、なかなかうまくいかなくって開拓事業団は解散となります。
その後、札幌に出ます。そして札幌に出て、志郎さんは今度は『北鳴新聞』という小さな新聞社に勤めます。そこで知り合ったのが、『赤い靴履いていた女の子』の作詞者である野口雨情さんと家族ぐるみのお付き合いをします。
そして、そこでかよさんが雨情さんに『このきみちゃんを預けたんだけれども、今はアメリカで幸せに暮らしていると思うけれど、やっぱり手放したのはせつない』というお話をされたそうです。
そこで、野口雨情さんが、詩人としての野口雨情さんなりの想像をしまして、この『赤い靴はいてた女の子』の詩ができあがったんです。そして、この詩に本居長世(もとおりながよ)さんという方が作曲いたしまして、大々的に童謡としてヒットします。
(清水歴史探訪より)
ところで、なんで赤い靴はいていた女の子の『母子像』ができたかなのですが、昭和48年11月の北海道新聞の夕刊に、岡そのさんという方が投書しました。『赤い靴で歌われている女の子は私のあったことのない義理の姉です。』つまり、志郎さんとの間に出来たお子さんが昭和48年になってから、もう初老だったそうですけれども、投書したそうです。
そのまま黙っていられなかったんでしょうね。そこで、この赤い靴の女の子の歌には、何かあるのかなというのがわかりまして、そこで北海道テレビの記者さんだった菊地寛(ひろし)さんという方が5年もの歳月をかけて調べたそうです。」
「頑張りましたね。」
(清水歴史探訪より)
「頑張りました。そこでわかったのが、生まれは清水区であること。今のね。それから北海道に渡ったこと。そしてきみちゃんを預けたこと。それからお母さんは最後は小樽に行ってること。そして小樽にもお墓があるということ。それで最後まできみちゃんはアメリカで幸せに暮らしていると思うということで亡くなっているそうです。
菊地寛さんは、アメリカにも行ったそうですが、きみちゃんがアメリカに渡った形跡がなかった。そこで、よく調べてみたら六本木(麻布十番)の孤児院にきみちゃんが『佐野きみ』という名前で、共同墓地に埋葬されていたそうです。
それでさらに調べてみたら、宣教師のヒュエット夫妻は可愛がっていたきみちゃんをアメリカへ連れて行こうとしたんですね。ところが、きみちゃんはその時に結核にかかっておりました。きみちゃんが6歳の頃です。その結果、きみちゃんは、船に乗せてもらえず、六本木(麻布十番)の孤児院に預けられたそうです。ヒュエット夫妻はお二人だけで、お帰りになったそうです。
その後、3年弱経ってから9歳の時に、六本木(麻布十番)の孤児院できみちゃんは一人さみしく9歳の命を閉じたそうです。悲しいお話ですね。」
「知らなかった。全然違うイメージでした。」