第十七話 『赤い靴はいてた女の子』の話
赤い靴の女の子『母子像』
所 在 静岡県静岡市清水区馬走(日本平山頂)
「静岡案内人」 駿府ウエイブ事務局 観光ボランティア
住 所 静岡県静岡市葵区大手町4-16 静岡観光コンベンション協会内
電 話 054-253-3616
対応時間 月~金(土日祝は除く) 9:30~15:30
目 次
『赤い靴』は1922年(大正11年)に、野口雨情が作詞し本居長世(もとおりながよ)が作曲した童謡です。ほんどの人が知っている童謡です。子供の頃、美空ひばりが歌っていたような気がします。すごく、いい歌のような気がしますが、歌詞をよく読むと、暗いというか、悲しい話なのです。
日本人は、安寿と厨子王とかフランダースの犬とかいう物悲しい、泣ける話が好きなのですね。この『赤い靴』も欧米人には、まったく、受けないような気がします。しかし、日本人には、野口雨情の歌はどれをとっても共感のもてるすばらしい歌なのです。私も、野口雨情の歌は大好きであります。
日本の国に、『日本』という名称を付けた地名を、いくつあげられますか?私は、日本橋、日本坂、日本平の3つしかあげることができません。それほど、日本平という地名はめずらしいのです。では、なぜ『日本平』という地名になったかごぞんじですか?日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、平定したとされるからです。日本平からは、富士山、、駿河湾、伊豆半島そして三保半島も一望できます。
国の名勝にも指定されています。写真は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。
昭和48年の北海道新聞の夕刊に、岩崎かよの娘の岡そのさんが、「童謡『赤い靴』のモデルは、私の姉、岩崎きみです。」と投書しましました。
普通なら無視してしまいそうな投書なのですが、北海道新聞の記者だった菊地さんは5年もの歳月をかけて、アメリカまで行って、女の子の足跡を追ったのです。新聞記者ってそんなに暇があるのか?とか、調査費用は会社負担か自腹か?とか、下司(げす)の勘ぐりはしてはいけません。ただ、ただ、一生懸命に女の子の足跡を探し求めた菊地さんに、深い感動を覚えましょう!
昭和55年に、北海道新聞の菊地寛さんが『赤い靴はいてた女の子』を出版すると、童謡『赤い靴』は清水の話だったということになりました。清水の商工会議所をはじめとして、あちらこちらで盛り上がり、昭和61年に、この赤い靴はいてた女の子の『母子像』が完成しました。あれから30年の月日が経ち、清水の人達もなんで日本平の山頂に、『母子像』があるのかわからない人が増えました。
各地にある 赤い靴はいてた女の子の像を建てられた順に紹介いたします。
①昭和54年 横浜山下公園『赤い靴はいてた女の子像』
②昭和57年 横浜駅『赤い靴はいてた女の子のミニチュア』
(999個制作されたうちの1個が寄贈された。)
③昭和61年 静岡市日本平『母子像』
④平成元年 東京六本木(麻布)『きみちゃん像』
⑤平成 3年 北海道留寿都(るすつ)村『母思像』
⑥平成19年 北海道小樽『赤い靴 親子像』
⑦平成21年 北海道函館『赤い靴の少女像』
⑧平成22年 アメリカサンディエゴ『赤い靴の女の子の像』
⑨平成22年 青森県鰺ヶ沢(あじがさわ)町『赤い靴 親子三人像』
『赤い靴』の童謡は、大正時代にできた童謡なのに、昭和どころか平成に次々と建てられました。
『赤い靴』の童謡が、いかに、日本人に愛されているかがわかります。
日本人って、く~ら~い。
ほとんどホームページが完成してから、ガイドの照澤さんと会ってきました。ちょうど、札幌から来た方に、『赤い靴はいていた女の子』の話をしておりました。今日は天気が良く朝から大勢のお客さんが来たそうです。ガイドの照澤さんは、月に一度、日本平でボランティアガイドをしているそうです。
本来ならば、私と一緒に写った写真を掲載する予定でしたが、次から次にお客さんが来たため、ツーショットでの写真を撮るのわすれてしまいました。
直接、ガイドの照澤さんの話を聞きたい方は駿河ウエイブの事務局に連絡してください。