第十四話 井上馨別荘『長者莊』の跡地を訪ねて
『静岡市埋蔵文化財センター』
住 所 静岡市清水区横砂東町33番2号
電 話 054-367-9436
開館時間 午前9時から午後4時30分まで
定 休 日 土曜日・祝日・年末年始、第2・第4・第5日曜日
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目 次
明治22年、皇太子(後の大正天皇)が避暑のため清見寺に滞在し海水浴を楽しみました。その後、後藤象二郎・伊藤博文・井上馨・松方正義・西園寺公望など多くの政治家が別荘を建てたり宿泊するなど、興津は別荘地・避暑地として大変賑わったそうです。
井上馨の別荘は『長者荘』と呼ばれたそうです。昔ある長者がこの場所に住み、米ぬかを捨てた結果山ができました。この山を『米糠山』とか『長者山』と呼んだことから『長者山荘』と名前がつきました。
当時の別荘の敷地は約5万坪あり、敷地の中にはみかん畑や広い庭園、また井上馨の銅像まであったそうです。インターネットで調べてみました。
明治43年に米糠山に立像が建立された後,翌44年にその山麓に建物を引移しました。引移した後の景観について次のように掲載がありました。「こゝに於て座敷より南方海上を望み,右手前面に茶席山があり,左に米糠山銅像を控へ,從來よりは一層風景絶佳の位置と爲つた。」ここでいわれている茶席山は,東海道線の脇に隆起した部分だそうです。写真の地図は、柿沼守さんが作られた地図です。
長者荘は総2階でその横に平屋の離れがあったそうです。インターネットで調べてみました。居住部分の主たる建物は2棟からなり、南側の空地を囲むように,その北側と西側に直交して配置されていたとのことです。まず本館ですが、外観を美しくするというより素朴になるよう皮付きのままの白樺や雑木をもちいたそうです。20畳敷の大広間の床柱には両国橋の杭(くい)の古材を利用したり、天井には自然のままの丸木を縦横に渡したそうです。
別館は鳥居坂からわざわざ持ってきたそうです。
井上馨は、 幼名は勇吉、通称は聞多(ぶんた)と呼ばれ、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に共鳴したり、伊藤博文とともにイギリスに密航したこともあるそうです。
元治元年(1864年)9月25日、長州藩での御前会議を終えた井上聞多が、反対派に襲撃され重傷を負いました。この時、母親が血だらけの聞多をかき抱き兄に対して介錯を思いとどまらせたというエピソードがあります。このエピソードが国定国語教科書に『母の力』と題して紹介されたそうです。
当時をしのぶ物は殆ど何も残っていないそうです。唯一残っているのは清水区役所の大蘇鉄と清水区江浄寺にある子安観音です。(第8話信康公菩提寺、江浄寺を訪ねて)
柿沼さんのご自宅には、仁王さんの像や当時の鐘やライオンの像の写真がありました。当時の井上馨の銅像の写真もありました。貴重な井上家のお宝の多くは、静岡市の埋蔵文化センターに寄附されたそうです。残念ながら調査鑑定が終わるまでは一般公開はされないそうです。
長者荘を後にして、改めて井上馨について調べてみました。まず、湯河原に『清光園』という旧井上馨別邸が宿に変身しておりました。機会があれば、是非行ってみたいですね!
それから、山口県には井上馨の痕跡はたくさん残っているようです。
しかし、一番、気になったのが国定教科書に載った井上聞多(ぶんた)の話です。
HPに全文記載してみました。