第十二話 久能山東照宮(とりあえず最終話)
住 所 駿河区根古屋390
TEL 054-237-2438
拝観料 社殿 大人 500円 小人 200円
博物館 400円 150円
共通 800円 300円
交通手段 東名静岡・清水インターより
日本平山頂(約40分)→日本平
※ 日本平山頂には無料駐車場有り(200台)
久能山東照宮を訪ねるには、日本平ロープウェイを使う方法と、久能山の麓からテクテク歩いて行く方法があります。久能山の石段は、1159段あります。昔からここの地元民は、一々ご苦労さんと覚えております。
階段は、上まで上るのに大体20分ぐらい掛かると言われております。私は、あちらこちら散策したので、上まで30分以上掛かりました。最初の見所は、『一の門』です。
徳川家康の白馬が亡くなった後、左甚五郎がその白馬に似せて馬を造りました。その馬が、亡くなった馬の代わりに厩舎(きゅうしゃ)に入っております。この厩舎を神厩(しんきゅう)と呼んで、大切にしております。
次に、江戸時代には鐘楼(しょうろう)があったのですが、明治の神仏分離令により、鐘が静岡市駿河区大谷の大正寺に移されてしまいました。この結果、鐘の代わりに太鼓を吊るしております。従って、鼓楼(ころう)と言われております。
江戸時代には、五重の塔がありましたが、明治になって神仏分離令により五重の塔が取り壊されてしまいました。左の写真は、明治の初めに撮られた写真です。左側の木の後ろに隠れて、五重の塔が建っております。
現在では、五重の塔の礎石(そせき)だけが、寂しそうに残っております。五重の塔を再建するには、莫大な費用が掛かります。観光客は、五重の塔の跡をもの珍しそうに写真を撮っております。今では、礎石だけが昔の名残を残しております。
神饌とは、日本の神社や神棚に供える供物のことであります。次に神饌所とは、神饌を調理し格納する所と辞書に書いてあります。
神饌所の前には、八房梅と呼ばれる紅梅(こうばい)と実割梅と呼ばれる白梅(はくばい)があります。この実割梅は家康公のお手植えの梅の木だそうで、三百年以上は経っています。
紅梅と白梅の前には、勝海舟と山岡鉄舟による石碑が建っております。残念ながら、年数を経過した為、文字が読めませんでした。
徳川家康公の宝物を大切に保管した蔵があります。この蔵を神庫(しんこ)と呼んでおります。
この中に、家康公の大事にした時計があります。この時計は、スペインのフェリペ三世からの献上品で、ハンス・デ・エバロが制作した時計だそうです。現存するのは、この時計とエル・エスコリアル宮殿にある時計の二つだけだそうです。
日枝(ひえ)神社は、江戸時代は薬師堂だったそうです。明治の神仏分離令により、薬師如来は静岡市駿河区大谷の大正寺に移されてしまいました。その代り、山中にあった山王社のご神体を納めたと伝わっています。現在、日枝神社は国の重要文化財に指定されております。
そしてこの度、国宝に指定された社殿があります。
この度、久能山東照宮の社殿が国宝に指定されました。国宝に指定されてからは、参拝にくる方がかなり多くなったそうです。
社殿は、豪華絢爛で日本伝統のわびさびの世界とは少し違います。この社殿は、権現造と呼ばれております。権現造は、本殿と拝殿の二棟を一体化し、間に『石の間』と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴だそうです。
家康公のお墓は、神廟(しんびょう)と呼ばれているそうです。本殿を出てから廟所(びょうしょ)参道を通り、廟門を通り、階段を上がると神廟に着きます。この廟所参道も国の重要文化財だそうです。
家康公の神廟の近くに、家康公の愛した白馬の墓もあります。
家康は次のように遺言を残したそうです。
『遺体は久能山に葬り、一周忌が過ぎてから、日光山に小堂を建てて勧請(かんじょう)せよ。神に祀られることにより関八州の鎮守になろう』
この結果、久能山に家康のお墓ができ、久能山東照宮ができたわけでございます。その後日光東照宮ができました。今では、東照宮と呼ばれる所は、名の知れたところだけで、二十ケ所以上あるそうです。
この結果、久能山に家康のお墓ができ、久能山東照宮ができたわけでございます。その後日光東照宮ができました。今では、東照宮と呼ばれる所は、名の知れたところだけで、二十ケ所以上あるそうです。
久能山東照宮を後にして、日本平ロープウェイで日本平に渡りました。日本平はその昔、日本武尊が東征の際、草薙の原で野火の難にあい賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところからこの名で呼ばれるようになったといわれています。
日本平は、昔、日本百景の第一位になったこともある景勝地です。是非、久能山東照宮の後に日本平も観光してください。
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