この道標が、移されたいきさつについて、『追分今昔記(府川松太郎著)』では次のように記載されている。
(追分今昔記より)
この道標は、現在は清水道に向かって右側に聚楽(じゅらく)塗りの堀の前に、松の若木二本と共に、街道に面して建てられているが、昭和三十二年頃までは、道路の左側に建てられていた。
元来、清水道は旧道であり、田んぼの少し広い道で、昔の大八車が通れさえすればよかったのである。だから、道幅はせいぜい一間(一・八メートル)ぐらいであった。
終戦後、急激に増加した自家用乗用車、あるいはダイハツの三輪トラック等が、清水道に入るのに難渋した。その結果、この道標は何者かによって倒された。それに気付き、筆者が近隣の人と協力し合って建てる。と、また倒される。かくて道標は倒されたままになってしまった。
昔より伝わる、由緒ある道標を、倒したままで良いであろうか。尊い「題目」と「七面大明神守護」と刻まれているこの道標の、安全な建立場所はないものかと心を痛めた。
この時の追分自治会長橋本喜三郎氏も、非常に心配してくれたし、心ある人たちも惜しんだ。そして、道標のもっともよい建立場所はないかと相談を受けた。その結果、道標の建てる場所は、今までの反対側になってしまうが、羊かん屋の道路側の堀を少し後にさげて、その場所に建てることにしようと定め、現在の場所になった。
松二本は、旧東海道の名残りを偲ぶよすがとなれば幸いである、と考えて植えたものである。
「東海道ということは、重要な人物もここを往復したのでないでしょうか?」
「私の店の前に、道標(みちしるべ)がありまして、大切な道標ということで文化財になっているんですけれども、元禄10年くらい、1697年ぐらいに出来たのではないか、と想像されております。
そうすると、元禄10年くらいというと、忠臣蔵、あれが元禄14年といっていますから、浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)さんの急変を知らせる使者が赤穂(あこう)の方に走った姿があったでしょうし、赤穂浪士の人達が吉良さんの家へ(討ち入りに)行くということで、もしかしたら隠密姿みたいな格好でこの東海道を通ったかもしれません。
そういうようなことをみんな見ている道標だと思います。」
清水湊(しみずみなと)に陸揚げされた荷物や旅人がここから東海道に入り、東海道を経由してきた荷物や旅人がここから清水湊(しみずみなと)へと向かったのです。
『追分羊かん』の店の前に残された、石の道標(みちしるべ)。その表面に刻まれた文字からは、当時の旅の様子が忍ばれます。
「その道標なんですけれども、表面に深く文字が刻まれておりまして、どんなことが書いてあるんでしょう?」
「そうですね、東海道に面して書いてあるのは『是より 志ミづ道』と書いてあります。昔の変体仮名(へんたいがな)なので、なかなか読みにくいです。
そして、東に向いている方は『南無妙法蓮華経』と書いてあります。
そして道標(みちしるべ)の裏っかたには、『七面大明神守護』と書いてあります。山梨県に身延山がありますけれども、身延山の横に『七面山』といって、『七つの面を持った山』という山があるんですけれども、その『七面大明神守護』と書いてあります。だから道標を造った人は、日蓮宗を信じた方であったなあと、想像できます。
そしてもう片っぽうの方には、この道標(みちしるべ)を設置した人の名前(注1)が、ちゃんと刻まれております。そこから元禄10年くらいじゃないかと歴史家は推定しているわけであります。
これを目印に、ここが追分だというのもあるでしょう。
また道標(みちしるべ)自体に『南無妙法蓮華経』と書いてあるのは、旅行者にあっては、頭が痛いとか腹が痛いとか、コンディションが悪くなるということもあります。それを『南無妙法蓮華経』という言葉でもって、『どうぞ健康でもって旅を続けて下さい』と言う思いを、彫ったのではないかと想像しております。」
(注1)『実相院法入日中 法春日陽寿位』と書いてあり、この人の建てた道標は京都と東京にあるそうです。道標は、昔はたくさんあったそうです。
「やはり昔の旅は大変だったということですね。」
「そうですね、大変だったと思います。安心して寝ていられないと。よく枕元のお金を持ってくような話もありますから、いつも緊張していなくてはいけませんよね。」
「またこの道標を建ててくれた方というのは、心の広い方なんですね。」
「そうですね、このくらいの道標一つ立てるのに一体いくらかかるんだろうと考えた時に、半端な金額じゃなくて、そうすると余程『皆を平和にしてあげたい』という強烈な願いのある人だったと想像します。」
「そういったところから、この道標(みちしるべ)が現在まで残ったわけですね。」