第十話 追分羊かんとその歴史
目 次
駿河路の清水の里に、いにしえの味をそのまま、あつものの粋ぞのこれる、追分の羊羹。
これぞ、竹の皮ほのかに香り、あじわえば、いとこころよく、わが夢も、ふくらむものを、 ああ追分の羊羹、うれし。
本日は、清水の名物『追分羊かん』を訪ねてみました。
古来、道を旅する人のために宿場、一里塚、道標とがあった。この道標はその一つで、正面に「南無妙法蓮華経」、脇に「是より志ミづ道(清水道)」としるされている。即ちこの地点が、東海道と清水湊への分岐点の追分で、当時は重要な道路であった。想えばある時は大名行列を見送り、またある時は魚売りが肩にかついで、急ぎ早に駿府(静岡)に向かって走るのが見られ、またある時は清水の次郎長を始め、追分三五郎も粋な姿でこの道を歩いたのである。この道標はそれらの歴史を知っている。(清水観光協会)
軽便鉄道は、明治42年12月に、清水と静岡の間に敷設されました。当初は、煙突のある軽便車で、清水波止場から旧東海道の『追分羊かん』の前を通り、静岡の安西まで行ったそうです。追分の停車所はもちろん『追分羊かん屋前』でした。
大正9年8月、軽便鉄道はちんちん電車に変わり、数倍速度が速くなったそうです。
昭和9年、全線複線化のために、現在の静鉄の路線に移りました。
江戸三代将軍家光のころ、府川のあるじ箱根の山中に、
旅に病める明の僧と出合い、こころあたたかく介抱。
やがて病癒えたかの僧は、感謝の涙とともに、
小豆(あづき)のあつものづくりの秘法を、ねんごろに伝授して去った。
それがそもそも、この追分羊羹のことの発(おこ)り。
ひたすらな善意と素朴な感謝が、いみじくも交流したところから、
この羹(あつもの)の風味は生れ出で、爾来三百年ひとの口に、
ひとのこころにしみじみと、しみわたってきている。
つつましくほのぼのと、いまも。
徳川十五代将軍慶喜公は、天保八年(1837年)九月、水戸藩徳川斉昭公の第七子として生まれ、幼名を七郎麿といった。七郎麿は十一歳の時、一橋家を相続。元服して慶喜と名乗った。
慶応二年(1867年)、慶喜公は十四代家茂の跡を継いで十五代将軍となった。
慶喜公は大政奉還を済ませた後、静岡に来て隠棲した。紺屋町にある「浮月」は、慶喜公が世塵を避けて、観雲観月に日を過ごしたところである。慶喜公は、静岡から拙宅(追分羊かん)に着かれると、奥の間で茶一服を、羊かんとともに召された。
慶喜公は、よく追分羊かん十一代当主府川佐太郎を供として、有度山に猟に行った。
『追分羊かん』をごちそうになりながら、慶喜公の座ったところから眺めるお庭は、格別であった。
慶喜公は写真が趣味でした。将軍が撮った写真集が、『追分羊かん』にありました。その写真集を借りてきまして、写真を撮りました。慶喜公のお孫さんが、プロのカメラマンだそうですが、慶喜公の写真の腕前は、いかがでしょうか?
左の写真は、写真雑誌『華影』に投稿した慶喜元将軍の撮った写真だそうです。