4.次郎長とお蝶さん
(清水歴史探訪より)
梅蔭寺には、次郎長が実際に手にした品が納められています。
「この遺物館にある遺品のほとんど90%以上は、三代目のお蝶さんの跡継ぎの入谷(いりや)家が寄進した物です。
次郎長が着てた胴着と書いてあります。これは鎖帷子(くさりかたびら)で昔は切先が通らない、喧嘩の時に身につける物です。
次郎長の身長は504寸、1メートル60弱ですね。明治の人にしては中肉中背ですね。
子分の大政の胴着は、大変大きいですね。
この時代は、旅から旅のチャンバラの時代ですね。
(二代目広沢)虎造の浪花節で、食いねぇ、食いねぇ、寿司を食いねぇという有名な森の石松の台詞(せりふ)の時代ですね。浪曲で有名なのはこの辺の時代ですね。
博打の道具もあります。次郎長は博打はあんまり上手じゃなかったとか、大変な博打の名手とか、いろんな説があります。
こちらが駒札と言いまして、勝ち負けの額をお金に換えて交換する駒札です。
こちらには、ざるがあります。これが壺振り(つぼふり)の壺(つぼ)です。
それからサイコロがあります。」
「こんなものが使われていたんですね。」
「そのようですね。」
ところで、次郎長は三回奥さんを迎えていますが、なぜか三人とも『お蝶さん』と呼ばれていました。
「初代のお蝶さんというのが、本名です。過去帳にはですね、『おちよ(オチヨ)』となっております。
次郎長があの十手取りから逃れて、逃避行している時です。
名古屋の巾下(はばした)の長兵衛の所に行っている時、お蝶さんが病気になりました。
そして安政五年(西暦)の12月30日に亡くなっているんです。
だから名古屋の方にもお墓があります。こちらにももちろん寝てるんです(お墓があるんです)。
そして二代目のお蝶さんは、本名はおはな(オハナ)さん。
明治2年5月、上町(かみちょう)に次郎長は、居(きょ)を構えていました。
そして、次郎長の留守の時に、徳川の浪士と思しき人物に襲撃されて二代目お蝶さんは、命を落してます。
襲撃して、逃げていく奴を田中の敬次郎が仕留めました。村松の妙音寺の門前で仇を打ったそうです。
過去帳にはですね、初代のお蝶が忘れがたく、二代目もお蝶と呼んだ、というふうに過去帳の但し書きがつけられています。
そして三代目のお蝶さんは、本名はおけん(オケン)。
知多半島の付け根の半田市。
次郎長はほとんど向こうで切った張ったの時代は足場を置きまして。そこでもらったのが三代目のお蝶さん、それがおけん(オケン)さんです。
本名はおけん(オケン)さんですが、やっぱり二代目と同じようにお蝶と呼んだそうです。
お蝶さん自身の書いたものとか、戸籍上のものも全部おテフとかおチヨとかおチョウとか蝶々の蝶の字、まあお蝶になってますけどもね。」