2.清水次郎長の話
(清水歴史探訪より)
境内には次郎長の銅像が建てられています。
「これが次郎長の銅像です。
この銅像は二代目なんですよ。
初代の銅像は、出来たのが昭和3年の戊辰(ぼしん)の年なんです。明治元年も戊辰の年です。明治維新の戊辰の年からちょうど60年後の戊辰の年に建ったんです。
これというのは、次郎長が明治元年に駿府城を守ったといわれているからです。
次郎長の銅像の後ろ側は石垣です。これが駿府城です。
そして前は池です。これは駿府城のお堀であります。
座っている次郎長は、ちょうど東北の方面、富士山の方を向いているんです。富士の裾野の開墾をやっております。
最初の次郎長の銅像は、昭和18年、太平洋戦争、金属類回収令というのがありまして、お国へ供出されてしまいました。大砲だとの武器になってしまったんですね。
次に、二代目の銅像ですが、戦後、次郎長の六十回忌という年が昭和27年にあたります。その時に銅像を再建しまして、これが二代目というわけです。
次郎長の生まれた家というのは、ここから150メートルぐらい東にあります。今でも生家が残っております。次郎長の生家は、梅蔭寺の檀家でもあります。
近所のガキ共が遊ぶには、梅蔭寺は絶好の遊び場でした。松林に囲まれておりまして、一本だけ背の高い松がありました。
その松が幽霊松と言われていました。なんとなく恐ろしいでしょう?というのは、ものすごく大きな枝を両方に広げて立っていたものですから、なんとなく幽霊が両手広げているように見えたのです。
徳川家康の時代からありまして。権現(ごんげん)様のご存じ松と、清見寺に残っている文集に書いてあります。清見寺の古文書にです。
ですから、次郎長はこの松の木の根本で遊んだであろうと思われます。しかも次郎長のお墓はこの幽霊松が立っていた場所にあります。
ですから、次郎長はこの幽霊松と余程深い縁があり、このお寺とも言うに言えない縁があったんではないかと思います。」
次郎長の物語は、舞台やメディアを通じて広まりました。スターの走りといった所でしょうか。
「次郎長の一つの人気といいますか、次郎長はご存じのように浪曲、浪花節、あるいは講談、映画、そういったことで大変知名度が高いわけであります。
特に、昭和の初め、(二代目広沢)虎造の語った浪花節で非常に有名になったのです。
描かれている対象は、斬った張ったのチャンバラですね。これが非常に受けが良かったわけです。
しかし、次郎長は明治になってから180度生き方を転換しました。世の為、人の為に生きようと考え方を変えたのです。
次郎長の人生は、ちょうど三分割できるんですね。三段ロケットだという人もいます。
第一段目は、悪がき時代。
第二段は斬った張ったの虎さんのように旅から旅の人生。
最後の三段目は、世の為人の為に尽くした人生。
その三段目の光り輝いている部分について、あんまり知ってる方が少ないのではないでしょうか。
私どもは『次郎長翁を知る会』ではこの三段目の次郎長の生き様を知ってもらいたいと思っております。これからの人達に次郎長を語り継いでいこうと考えております。」