3.松浦源太郎成清(しげきよ)と恋塚について
(清水歴史探訪より)
この五輪塔のすぐ近くには、別の秘伝の物語を伝える塚が、建っています。
「徳川幕府の初期の寛永元年(1624年)5月24日に、九州平戸の松浦家の藩主、松浦肥前守隆信(ひぜんのかみたかのぶ)の弟、松浦源太郎成清(げんたろうしげきよ)は、この江浄寺の一室で切腹しました。
なぜ切腹したかと言いますと、成清(しげきよ)の許嫁(いいなずけ)春姫(はるひめ)を、平戸に残して成清(しげきよ)は江戸詰めになっておりました。
成清は、兄の隆信が平戸へ帰って春姫を側室にしてしまうと、心配をしまして、兄の大名行列が通っているところを追いかけて行き、この江尻の宿で追いつきました。ところが、そこからが問題で、黙って江戸を抜け出したってことは大きな罪になるわけです。」
「当時は、江戸時代ですから厳しいわけですね。」
「そうです。黙って江戸を抜け出ちゃいけないわけです。それで、家老が成清を幽閉させてしまったわけです。松浦家が取り潰しにならないように、成清を切腹させることになってしまったんです。
成清は覚悟して、松浦家の為に私が腹を切りましょうということになったんです。で、ここからが、面白いんですね。面白いって言ったら失礼ですけれども、『わが墓は、この寺に建てよ。願(がん)かける者あらば、その思いを遂げさせてあげよう』と遺言したわけです。
つまり、『自分のお墓はここに建ててもらいたい、そして自分の墓にお参りに来てくれたら、その男女を結ばせてあげたい』と。
その遺言のご利益を信じて、身分の違う一緒になることができない方々が、そーっと、お参りに来るようになりました。いつのまにか、縁結びのお墓、恋塚と呼ばれるようになったのです。
その話は、しだいに、忘れられてしまいました。ところが、私が平戸の松浦記念資料館に行ったら、本当にあった話だとわかりました。そこで、東海道400年祭の記念にということで平成17年に、浄財の寄付により、小さなお墓が建ちました。」
「あの俗な話になりますけれども、この恋塚をお参りに見えるようなカップルもいらっしゃるんですか?」
「カップルっていうのは見てないけど、お花が時々あがってるよね。そーと来て、あげてくっていうのが、この人の供養らしい。昔もそうだった。江戸時代も。」
なぜ切腹したかと言いますと、成清(しげきよ)の許嫁(いいなずけ)春姫(はるひめ)を、平戸に残して成清(しげきよ)は江戸詰めになっておりました。
成清は、兄の隆信が平戸へ帰って春姫を側室にしてしまうと、心配をしまして、兄の大名行列が通っているところを追いかけて行き、この江尻の宿で追いつきました。ところが、そこからが問題で、黙って江戸を抜け出したってことは大きな罪になるわけです。」
「当時は、江戸時代ですから厳しいわけですね。」
「そうです。黙って江戸を抜け出ちゃいけないわけです。それで、家老が成清を幽閉させてしまったわけです。松浦家が取り潰しにならないように、成清を切腹させることになってしまったんです。
成清は覚悟して、松浦家の為に私が腹を切りましょうということになったんです。で、ここからが、面白いんですね。面白いって言ったら失礼ですけれども、『わが墓は、この寺に建てよ。願(がん)かける者あらば、その思いを遂げさせてあげよう』と遺言したわけです。
つまり、『自分のお墓はここに建ててもらいたい、そして自分の墓にお参りに来てくれたら、その男女を結ばせてあげたい』と。
その遺言のご利益を信じて、身分の違う一緒になることができない方々が、そーっと、お参りに来るようになりました。いつのまにか、縁結びのお墓、恋塚と呼ばれるようになったのです。
その話は、しだいに、忘れられてしまいました。ところが、私が平戸の松浦記念資料館に行ったら、本当にあった話だとわかりました。そこで、東海道400年祭の記念にということで平成17年に、浄財の寄付により、小さなお墓が建ちました。」
「あの俗な話になりますけれども、この恋塚をお参りに見えるようなカップルもいらっしゃるんですか?」
「カップルっていうのは見てないけど、お花が時々あがってるよね。そーと来て、あげてくっていうのが、この人の供養らしい。昔もそうだった。江戸時代も。」
(気になるその後) 真珠姫とも言われた春姫は、やはり兄の側室にされてしまったそうです。---やっぱり。
もし、兄の隆信が春姫に手を出さなかったら、隆信は、男の中の男???逆か?