1.江尻宿の中心、江浄寺を訪ねて
江浄寺を訪ねる前に、ほんの少し旧東海道を歩いてみました。
まず、国道一号線から旧東海道への分かれ道、『細井の松』です。江戸時代は、450メートルほどの松並木があったそうで、東方は海岸線にせまり、清見潟、三保松原が垣間見え、絶好の休息地であったそうです。
次に、『秋葉道入口』を通り、『辻一里塚と高札場の跡』を確認し、江尻宿東木戸跡地まで来ました。この付近は、辻と本郷の境、本要寺前方に存在しています。妙蓮寺は本要寺の南に隣接しています。
それから、鍛治町・鋳物師町に参りました。戦国時代、江尻城の城下町が形成され、武田信玄が鍛冶職人や鋳物師をこの地に集住させたとのことです。
江浄寺が近くにある伝馬町を通り、現在の清水銀座通りである志茂町、仲町、魚町を通り、稚児橋に向かいました。清水銀座通りは、江尻宿の中心街で、本陣や脇本陣等があったそうですが、今は何もありません。
稚児橋は、渡り初め式の際、橋の下から童子(河童)が現れたという伝説があり、橋名の由来となっております。
巴川の淵にある船高札場跡を見て、お昼を食べに戻りました。
清水銀座に戻って、創業文政元年のお茶屋の隣へ。
(清水歴史探訪より)
蒲原、由比、興津、そして江尻から府中へ。
清水歴史探訪
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
巴川に沿ってのびる清水銀座周辺。東海道の江尻宿として発展してきた歴史のある地域です。商店街から一歩入った所に佇む古刹(こさつ)が、『江浄寺(こうじょうじ)』です。室町時代の創建というこの寺は、江戸幕府によって江尻宿が整備されるのに伴って現在の場所に移されたと伝えられております。
御住職の鶴屋俊昭(しゅんしょう)さんに伺いました。
「東海道なんですよ。そこの銀座にぶつかるでしょう?昔は、下町、魚町とか言っておりましたが、そこが(旧の)東海道なんですよ。東海道宿場町なんです。西へ行く大名は必ずここを通ったわけです。その時には、下馬して大名は皆、ここの山門から入ってきてお参りしたわけですね。
徳川さんの所に、お線香をあげて。それから行列を進めたわけです。ここ浄土宗で念仏なんですよ。法然上人の開いたお念仏の浄土宗なんです。
その当時は、駿府へ泊まらないで、こちらの江尻の宿に泊まる大名の方が多かったそうです。というのは、駿府は城代家老(じょうだいがろう)がいるわけです。したがって、非常にその儀式が面倒くさい。」
「登城しなければならない。」
「東海道なんですよ。そこの銀座にぶつかるでしょう?昔は、下町、魚町とか言っておりましたが、そこが(旧の)東海道なんですよ。東海道宿場町なんです。西へ行く大名は必ずここを通ったわけです。その時には、下馬して大名は皆、ここの山門から入ってきてお参りしたわけですね。
徳川さんの所に、お線香をあげて。それから行列を進めたわけです。ここ浄土宗で念仏なんですよ。法然上人の開いたお念仏の浄土宗なんです。
その当時は、駿府へ泊まらないで、こちらの江尻の宿に泊まる大名の方が多かったそうです。というのは、駿府は城代家老(じょうだいがろう)がいるわけです。したがって、非常にその儀式が面倒くさい。」
「登城しなければならない。」
「そう、登城しなければならないから、それが、やっかいだもんですからね。江尻で泊まって、駿府は簡略にして、すっと西の方へ行っちゃう大名が多かったらしいです。
だもんですからね、当時の記録ではね、江尻宿の方が賑やかだったそうです。江尻宿には、本陣や脇本陣というのがあったんですね。
また、そこにも泊まらない人は、この寺に泊まったわけですね。朝鮮通信使とかね。朝鮮通信使もここに泊まって、清見(せいけん)さんへ行ったみたいですね。」
だもんですからね、当時の記録ではね、江尻宿の方が賑やかだったそうです。江尻宿には、本陣や脇本陣というのがあったんですね。
また、そこにも泊まらない人は、この寺に泊まったわけですね。朝鮮通信使とかね。朝鮮通信使もここに泊まって、清見(せいけん)さんへ行ったみたいですね。」
「では、相当賑わっていた界隈(かいわい)なんですね。」
「そうですね、昔はこの通りは伝馬町といったんです。」
「馬をついでいく伝馬(てんま)?」
「伝令ではね、何か事件があると馬は早馬を飛ばしました。そのための伝馬(てんま)がここに常駐していたそうです。
その伝馬町の隣が、鋳物師(いものし)町といってね、鋳物屋がいたんです。
その向こうは鍛治町と言ってね、鍛治屋がいたわけですよ。まあそういう風に、職人がそこら辺に住んでいたわけですね。」
「そうですね、昔はこの通りは伝馬町といったんです。」
「馬をついでいく伝馬(てんま)?」
「伝令ではね、何か事件があると馬は早馬を飛ばしました。そのための伝馬(てんま)がここに常駐していたそうです。
その伝馬町の隣が、鋳物師(いものし)町といってね、鋳物屋がいたんです。
その向こうは鍛治町と言ってね、鍛治屋がいたわけですよ。まあそういう風に、職人がそこら辺に住んでいたわけですね。」
「今、ちょうど山門と本堂の間で、お話を伺っておりますけれども、この辺りを、大名がお参りの為に、通ったというわけですね。」
「そうですね、そして出ていって挨拶するのが、住職の仕事。
昔はね、ここはわりと、由緒ある寺院なのです。ここの住職の仕事は、なんとかいう貴人が来たときに、応対するというのが、仕事だったんですよ。
一般の人の御葬儀とかは、やっていなかったみたいですね。」
「各国大名の御接待役ということですね」
「そうですね、それで駕籠で駿府城まで行ったと。そして駕籠はね、先代の住職の話によると、本堂の裏に用意してあって、その駕籠に乗って城代家老の所に、挨拶に行っていたそうです。」
「そうですね、そして出ていって挨拶するのが、住職の仕事。
昔はね、ここはわりと、由緒ある寺院なのです。ここの住職の仕事は、なんとかいう貴人が来たときに、応対するというのが、仕事だったんですよ。
一般の人の御葬儀とかは、やっていなかったみたいですね。」
「各国大名の御接待役ということですね」
「そうですね、それで駕籠で駿府城まで行ったと。そして駕籠はね、先代の住職の話によると、本堂の裏に用意してあって、その駕籠に乗って城代家老の所に、挨拶に行っていたそうです。」
「今とは、全然雰囲気が、違ってたんですね。」
「そうですね、だからうちの墓の中には徳川さんの関連で、檀家さんになった人が多いですよ。(徳川)慶喜公が、江戸からこっちへ下って来ますね。明治維新の時です。
(新政府により)駿府に御隠居されるじゃないですか。その時に、江戸からついてきた家臣らの方々が、前と同じように同じ宗派のお寺にということで、ここのお寺の檀家になった人もいますね。
もちろん、それ以前に徳川さんと関係なく、このあたりに住んでいて、檀家さんになったという方もいますよね。そういう方は、十代とか十五代前から檀家ですけどね。」
(新政府により)駿府に御隠居されるじゃないですか。その時に、江戸からついてきた家臣らの方々が、前と同じように同じ宗派のお寺にということで、ここのお寺の檀家になった人もいますね。
もちろん、それ以前に徳川さんと関係なく、このあたりに住んでいて、檀家さんになったという方もいますよね。そういう方は、十代とか十五代前から檀家ですけどね。」