第八話 信康公菩提寺、江浄寺を訪ねて
住 所 清水区江尻東3丁目6-6
TEL 054-366-5563
交通手段 JR清水駅より徒歩5分
静鉄新清水駅より徒歩5分
東名清水インターより10分
目 次
旧東海道は、全部で三本あります。一本目は、大化の改新の後造られた旧東海道です。次に造られたのが、源頼朝が天下を平定し造られた旧東海道です。この二本とも、北街道の方だそうです。三本目の旧東海道が、徳川幕府により造られた旧東海道です。この旧東海道は、わざわざ巴川の近くを通り、府中に向かっております。この巴川と旧東海道の接点が江尻港(川港)となり、江尻宿となります。江尻宿の中心が『江浄寺』と言うお寺です。『江浄寺』を案内する前に、旧東海道の細江の松から『ちびまるこちゃん』でお馴染みの入江商店街の入り口まで案内させて頂きます。
信康は永禄二年(1559年)、駿河の国で生まれました。父は徳川家康、母は今川義元の姪にあたる築山御前です。9歳の時に織田信長の娘、徳姫と結婚し、12歳の時に三河国岡崎城の城主になりました。17歳の時には、遠江国での武田軍との戦いの後、退却となりました。その時、殿(しんがり)を務めました。退却戦での殿(しんがり)というのは、非常に危険で誰もやりたがらない役であります。この役を見事に勤め、将来が期待されておりました。しかしながら、妻徳姫から信康の母築山御前とともに甲斐国の武田勝頼と内通していると、信長に讒言(ざんげん)され、切腹を命じられました。
事件の背景には諸説があります。中には、家康黒幕説や武田勝頼の謀略説もあります。歴史に興味のある方は是非調べてみて下さい。
江戸時代、松浦源太郎成清という方が、この江浄寺で切腹されたそうです。切腹する時に、源太郎は「自分の墓に願をかける者があれば、その思いを遂げさせる」と約束したそうです。この結果、源太郎の墓には恋の成就を祈願する人たちが訪れるようになり、今では『恋塚』ができたそうです。
この話を聞いて、アシスタントの友美さんはなんと純情な話ですね、と感想を漏らしておりました。これに対し、私は世の中にはドジな男がいたもんだと感想を漏らしました。友美さんは命がけの恋もあるのですね、と言ったので私は女々しい男がいるもんだと言いました。
興津には、西園寺公爵の別荘、坐漁荘(ざぎょそう)だけでなく井上馨侯爵の別荘、長者荘もありました。坐漁荘は明治村に移設されましたが、今では元の場所にそっくりさんがあります。井上侯爵の長者荘は残念ながら現在はありません。
井上侯爵は、観音さんを信仰しており東京美術学校の高村光雲先生と岡崎雪聲先生に観音さんを造ってもらいました。このマリア観音が、井上侯爵と縁があった江浄寺にあります。このマリア観音はかなり芸術性が高く、私は静岡県立美術館にあるロダンの『考える人』に勝るとも劣らない芸術作品だと思っております。(少しほめすぎ?)
西洋の姿をしたマリア観音様は一見の価値があります。
本堂には、平安末期の阿弥陀仏があります。戦時中は疎開させ、この阿弥陀仏だけは残ったそうです。阿弥陀様は極楽に住んでおり、亡くなった人を極楽浄土に導いてくれるそうです。だから、浄土宗のお寺には必ず阿弥陀様が祀ってあります。ところで、阿弥陀様は、かならず指で輪を作っております。従って、阿弥陀様を拝むとお金が儲かるのです??。また、阿弥陀様には、後光を意味する光背(こうはい)があります。浄土宗の阿弥陀様は、一般的に舟形光背(こうはい)の唐草模様だそうです。
浄土宗の親戚の浄土真宗は、四十八願(阿弥陀様が仏に成る前に立てた48の誓願)を示す48線の放射状光背(こうはい)が普通だそうです。放射状光背(こうはい)が、あみだくじの原型だそうです。
さて、江浄寺にある平安末期の阿弥陀様、おそらく静岡県では一番古いのかもしれません。国宝級の価値がありそうです。