6.血天井で有名な大玄関を拝見して
(清水歴史探訪より)
関所の守りとして生まれたこの場所の、歴史を物語るものが、もう一つ本堂の重要な構造物として残っています。
外(裏側)から撮った『大玄関』です。
解放された大玄関。檀家の葬儀の時には解放されるそうです。
「今度は本堂の正面から見ると左側でしょうか。」
「ここは普段は開けません。ですが、一応ここは玄関」
「ここが玄関なんですか?」
「はい、お寺のお葬式ですとか、御住職が新しくこのお寺に着任するとか。そういった時にしか開けないわけですが。」
「特別な場合の玄関なんですね。」
写真は、大玄関の内部
「ここが玄関でして、徳川家康の娘、振姫(ふりひめ)という人がこれをご寄進してくれたんですけども。
実は、上を向いて頂きたいんですが…なにか白い物がよく見えたり、あるいはもっとよく見ると馬の蹄(ひずめ)が四か所くらいあるんですけど。」
「板張りの天井なんですけれども、パッと見は、古い天井、板張りの天井なんですが?」
「これが『清見寺の血天井』といいます。西暦1200年正治2年の鎌倉時代のことです。
梶原平三景時(へいぞうかげとき)という人が、このすぐ近くの清見関で襲われました。郷土の侍達、入江一族が待ち構えていまして、梶原平三景時と合戦になったわけです。それで、人馬、人間とか馬の血がべったり清見関の柵にくっついたわけです。
(写真)清水の高源寺に梶原平三景時のの墓があります。
それをずっと水で洗って、清見寺で保管をしておりました。何百年も経ったんですが、家康の娘が清見関(きよみがせき)の柵を引きなおして寄進しました。
鉋(かんな)はまだなかったので手斧(ちょうな)で削ってそして板にして天井に上げたんです。そうしたら、不思議にそれから血がにじんで出てきたり、馬の蹄(ひずめ)が出てきたり。あの時の梶原の怨念だろうと。何百年経っても怨念が一気に出たのかという風なことで、以来、『清見寺の血天井』という風な名前がついているわけですね。
振姫という人は二度結婚しまして、二度とも上手くいかないんですけれども、特に最後の時は、赤ちゃんを身籠って、そしてその産んだ翌日に死んでしまう。やはりこれも、そうした梶原景時の怨霊じゃないかという風な見方をする人もいるんですけどね。」