4.清見関(きよみがせき)の置き土産
(清水歴史探訪より)
五百羅漢と並んでこの寺を象徴するのが、日本海を越えて朝鮮半島から日本を訪れていた外交使節です。
「色々な方の額が、残されているんですね」
「これはあの朝鮮から通信使というのが参りまして、通信というのはツーツーツーツーツーというあの通信ではなくて、よしみを通ずる、親しくする、心を会話するという通信の意味なんです。
そして通信使が清見寺を宿所にしまして、泊まったり、お昼を頂いたり、江戸へ行く時、あるいは江戸からの帰り、ここを随分使っておりました。
言葉は通じませんけども、漢詩、そうしたですね、漢詩は向こうの朝鮮の方も十分わかるわけです。そしてここの御住職と漢詩の交換をした。それが全部、扁額(へんがく)として、ここに飾られているわけですね」
「こちらは日本の外交史の一端ですね。」
「そうですね、本当に朝鮮の歴史を調べる上においても、ここは避けては通れないという場所なんですね。」
(清水歴史探訪より)
さて、この清見寺には意外な物が残されています。
「今、本堂のちょうど横を通っているわけですが。こちらに武器が飾ってありますね。」
「ちょうど外側のこの廊下みたいなところを、通っているわけなんですけれども。」
「一番上が、刺又(さすまた)と言って、相手の首をこれでもって抑えてしまう。その次が突棒(つきぼう)。まあ、これは突棒で突いてしまう。さらに袖搦(そでがらみ)。袖搦というのは相手の袖に絡めて引きずり落とす。で、まあ一番下は長刀(ちょうとう)。まあ薙刀(なぎなた)の一種なんですけどね。これが実は清見関(きよみがせき)の関所の時に使った武器と、言われているもので非常に貴重なものなんですね」
写真は、古代武器の名札
「現在の清見寺の形になる前の関所があった時の物が現在残っているわけですね。」
「そうですね、これは室町時代、足利将軍家がいた大体中期ぐらいのものだろうと考えられているんですね。1500年代ですね。」
写真は、室町時代後期の清見ヶ関
「実戦にも使われたんでしょうか?」
「いやちょっと、それは文献はないわけですが…おそらく室町時代に何回かの小競り合いはあったでしょうから、使ったこともあったかもしれませんけどね。それを証明する文書(もんじょ)というものは、お寺には残されていないんですけどね。」
「お寺に武器というのがちょっとそぐわないような気がするんですけれども?」
「関所を置きまして、いろんな中央政府に対し弓を引くような人達を防備するというためには、人間だけではとても守りきれない、神・仏の力を必要ということで。官立のお寺として清見寺が建てられました。
それで、清見関(きよみがせき)と清見寺というのは一対(いっつい)のものというわけです。
本来は、武器はお寺にはふさわしくないものではあるんですけどね。」