清水港咸臨丸事件と壮士墓(そうしのはか)
幕府軍艦咸臨丸は万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節団として太平洋を横断しているが、1868年戊辰戦争(明治維新)の勃発で榎本武揚の指揮で品川沖を脱走、函館を目指すも台風により大きく損傷、航行不能になり修理の為に清水へ入港。
写真は、咸臨丸
咸臨丸は武器弾薬など兵装を下ろしていた。ところが新政府軍艦三艘が一方的に至近距離から砲撃し白旗を掲げて降服する意思を見せている乗組員の多くを殺戮、遺体を海中に投棄した。人口密集地の港湾内での遺体の投棄という、新政府の行った常識外れの蛮行で、無関係な清水港の近隣住民や漁民が大迷惑を被ったのである。
この時、岸に流れ着いた旧幕府軍戦死者の亡骸を集めて埋葬したのが、何と、侠客の清水の次郎長であった。駿府藩士松岡万の取り調べに清水次郎長は「仏に敵味方もない」と答えたという。
この話に感動した山岡鉄舟がその志に感じ『壮士墓』と書いて与えた。今も山岡鉄舟の筆になる『壮士の墓』は清水の築地町にある。
また、将来の清水港の発展を考えて、記念碑は清水市興津清見寺境内に『咸臨丸殉難の碑』が建てられた。
写真は、静岡市清水区築地町にある『壮士の墓』
清水次郎長と明治維新
田口栄爾 著
明治20年(1887)4月17日に行われた式典の一部始終、参列者名、記念碑設計図などを網羅して記した報告書が残されている。
タテ21cm、ヨコ14.5cm、和紙に和文タイプ打ちした報告書は表紙に、「咸臨丸殉難諸氏記念碑落成報告」と飾られ、本文34ページ、折込附図四枚から成っている。
この詳細な報告書を繙いてみると、咸臨丸戦死者に対する旧幕臣たちの熱い哀悼の気持が、記事の端々から伝わってくる。
その冒頭にはいきなり、次郎長に対する感謝の言葉が述べられている。
「咸臨艦乗組諸氏ノ難ニ殉(あ)フヤ當時土人山本長五郎ノ義気ニ憑(よ)リ僅ニ其屍ヲ斂(おさ)ムルヲ得タリ」
二十年前、咸臨丸事件の犠牲者たちは、辛うじて次郎長の義侠心によって遺体を葬ってもらうことができたというのである。
記念碑建立の計画は明治十八年から始まり、発起人には榎本武揚、沢太郎左衛門、荒井郁之助ら旧幕臣七名が名を連ねている。建碑の募金には183名が応じ、合計62円20銭が集められた。
4月17日、落成式当時は晴天に恵まれ、約百人の参列者ばかりでなく、地元興津や江尻、清水の町民たち数千人が集まり、清見寺の境内は立錐の余地がないほど賑わった。供養の法要が終った後、鐘楼上から紅白の投げ餅が行なわれた。
高さ3mもある記念碑は、人びとの目を奪った。表面は本堂の方を向き、「骨枯松秀」の篆額は大鳥圭介、三百余字の碑文は永井尚志が揮毫した。
裏面は海岸の方を向いている。『史記』の「准陰侯列伝」から引用したもので、「人の食を食む者は、人の事に死す」という文意は、「禄をいただいた主君のために人は殉じる」という意だ。清見寺を訪れ、山門を入った人びとには、まず、この裏面の文字が目に飛び込んでくる。福沢諭吉が、この碑文を見て「痩せ我慢の説」を書き、明治維新政府高官となった勝海舟と榎本武揚に質問状を発した話は当時のジャナーリズムを湧かせた。
『清水次郎長と明治維新』166ページより
清見寺と三保の松原が富士の前景として描かれています。