臨済宗妙心寺派とは
宗門では、ゴータマ・シッダッタの教え(悟り)を直接に受け継いだマハーカーシャパ(迦葉)から28代目のボーディダルマ(菩提達磨)を得てインドから中国に伝えられた、ということになっている。その後、臨済宗は、宋時代の中国に渡り学んだ栄西らによって、鎌倉時代に日本に伝えられている。
日本の臨済宗は、日本の禅の宗派のひとつである。同じ禅宗の曹洞宗が地方豪族や一般民衆に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。
臨済宗の宗派としては、建仁寺派、東福寺派、建長寺派、円覚寺派、南禅寺派、国泰寺派、大徳寺派、向嶽寺派、妙心寺派、天龍寺派、永源寺派、方広寺派、相国寺派、佛通寺派、興聖寺派と数え切れないくらいある。
その中で、妙心寺派は1337年関山慧玄により始まり、本山は京都の妙心寺 で、末寺3,400余か寺を持つ臨済宗最大の宗派である。白隠慧鶴もこの法系に属する。
天台宗とは
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつであり、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期に日本に伝えられた。
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である釈迦如来としていることである。
最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。したがって、私は天台宗の弟子には成れない。
真言宗 高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)
天武天皇(てんむてんのう)
生年不明~朱鳥元年(686)
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代であり、文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、律令制の導入に向けて制度改革を進め、飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂を始めた。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。
太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ)
雪斎は今川義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐。天文6年(1537)、雪斎は武田と今川の両家の間に甲駿同盟を成立させた。天文15年(1546)雪斎は大軍を率いて西三河に介入、織田軍を破って西三河の支配権を得た。また、天文18年(1549)織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻した。天文23年(1554)には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。
このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している。
雪斎の死後、5年を経ずして義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死するが、もし雪斎が生きていたら今川家が衰退することはなく、義元が討死することはなかったとみる現代の歴史家・作家は非常に多い。