第六話 清見寺と清見ヶ関
住 所 静岡市清水区興津清見寺町418-1
電 話 054-369-0028
料 金 大人 300円 中高生 200円
小学生 100円
西東 あわれさ同じ 秋の風 芭蕉
春風や 三保の松原 清見寺 鬼貫
目 次
『清見寺』は『清見関』を守る為に造られた関所です。この関所は、江戸時代の関所とは違います。東北の蝦夷(アイヌ人?)に備えて造られた関所です。関所とお寺が造られたのは、天武天皇の時代と言われています。
『清見寺』は、鎌倉時代に天台宗のお寺として再興されました。この当時にはまだ、『清見関寺(きよみがせきじ)』と言われたそうです。
アメリカへ行った咸臨丸が清水港に入り、時化(しけ)に入って難破します。咸臨丸は幕府の船で、遺体を動かしただけで新政府に罰せられる時代です。その遺体を清水次郎長が葬ったそうです。このことが石碑に書いてあります。この石碑の裏に、榎本武揚が史記の一節『食人之食者死人事』と書きました。「食わしてもらった幕府の為に、死をもって奉仕した」という意味です。
福沢諭吉がこの碑を見て、幕府に仕えその後明治政府に仕えた大鳥圭介を皮肉ったそうです。
清見寺には、五百羅漢が無造作に密集して置いてあります。この五百羅漢は、実はよそのお寺にあった羅漢さんです。そのお寺が倒産?したので、清見寺に持ってきたそうです。その為、羅漢密度が高い所に五百羅漢さんが並べてあります。この五百羅漢さんの一つを巡って、井上馨と住職との間で事件がありました。その羅漢さんが『牛肉羅漢』です。左側の羅漢さんが牛肉羅漢さんです。
この時、ボランティアガイドの伏見鑛作さんからは上の羅漢さんを牛肉羅漢と紹介されました。しかし、清水歴史探訪の解説者の佐野明生さんの解説では、違う羅漢さんを牛肉羅漢さんと説明しておりました。
平成29年7月改めて、伏見鑛作に調べてもらったところ、伏見鑛作さんの説明が正しいことが分かりました。このことについては、本文で改めて説明いたします。
清見寺には、お寺に似付かわしくない物があります。刺又(さすまた)、突棒(つきぼう)、袖搦(そでがらみ)、長刀(ちょうとう)と言われる古代の武器です。なぜこのような物があるかと言いますと、清見関(きよみがせき)で使っていたからです。まさに、清見関(きよみがせき)の置き土産と言えます。
この庭は江戸時代の初期、山本道斉によって築庭されたと言われております。家康公はことのほか、この庭が好きだったようで、駿府城より虎石、亀石、牛石を移したそうで、五木三石の庭と言われているようです。また、この庭には芭蕉の石碑が裏返しにされ、橋として使われているそうです。『西東あはれさ同じ秋の風』と書いてあるそうですが、この石碑も哀れですね。
滅多に使わない大玄関があります。この玄関は、家康公の姫君、『振姫』が寄進したものだそうです。ラジオでは梶原平蔵景時の血が柵に付いたと言っておりますが、案内人の伏見鑛作さんの説では床板に血が付いて、その床板を天井にしたのではないかと言っていました。この天井、どう見ても小汚いだけでどこが血の跡か説明を聞いてもよくわかりませんでした。昔は藁葺(わらぶき)の屋根だった為、雨漏りがひどく綺麗に雨の後がついたようです。
7.清見寺を後にして
清見寺を出る時に、もう一度昔からあった階段を見てみました。案内人の伏見鑛作さんの説では、江戸時代はこの階段がそのまま旧東海道まで繋がっていたのではないか、とのことでした。ラジオでは最初に、掘り割りを利用してJRの鉄道を通したと言っておりましたが、この階段を見ていると伏見さんの説が正しいような気がいたします。