六大浮世絵師(ろくだいうきよえし)
際だった光彩を放つ6人の浮世絵師
鈴木 春信(すずき はるのぶ)
享保10年(1725)?~ 明和7年(1770)
江戸時代中期の浮世絵師で、京都に出て西川祐信に学び、後に江戸に住んだといわれる。細身で可憐、繊細な表情の女性像で知られる美人画の浮世絵師である。浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者としても知られる。
鳥居 清長(とりい きよなが)
宝暦2年(1752)~ 文化12年(1815)
鳥居派四代目当主で、鳥居派の代表的な絵師である。鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍し、それらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人とされる。鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、むしろ清長の本領は一世を風靡した「美南見十二候」、「風俗東之錦」、「当世遊里美人合」などの美人画にある。八頭身の美人画は、今日世界的に高く評価されている。
喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)
宝暦3年(1753年)頃? ~ 文化3年(1806)
国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく)
能役者・斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)とする説が有力
宝暦13年(1763)~ 文政3年(1820)
江戸時代中期の浮世絵師で、約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られる。写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)3月にかけての約10か月の期間内に、145点余の作品を版行している。目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性を大胆かつ巧みに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品であった。その個性的な作品は強烈な印象を残さずにはおかない。
葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
宝暦10年(1760)~ 嘉永2年(1849)
代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。
歌川 広重(うたがわ ひろしげ)
寛政9年(1797)~ 安政5年(1858)
本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切である。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
広重は生涯に15シリーズもの東海道を描いており、その代表的なものには次の様なものがある。
1832年----保永堂版東海道五十三次 天保3年(1832) 広重36歳
1840年----佐野喜版「東海道五十三次」ー「狂歌入東海道」 天保11年(1840) 広重44歳
1842年----江崎屋版「東海道五十三次」ー行書東海道 天保13年(1842) 広重46歳
1843年----伊場仙版「東海道五十三対」 天保14年(1843)広重47歳。
1847年----丸清版「東海道五十三次」ー「隷書東海道」 弘化4年(1847) 広重51歳
1847年----藤慶版「東海道五十三図会」ー「美人東海道」 弘化4年(1847)広重51歳
1844-48--有田屋版「東海道五十三次」 弘化年間(1844-1848) 広重48-52歳
1848-54--蔦屋版「東海道五十三次」 嘉永年間(1848-54) 広重52-58歳
1852----村市版「東海道五十三次」ー「人物東海道」 嘉永5年(1852) 広重56歳
1854-55年--丸久版「双筆五十三次」ー「双筆東海道」 安政元年~2年(1854-1855)広重58-59歳
1855年----蔦屋版「東海道五拾三次名所図絵」ー竪絵東海道」 安政2年(1855)広重59歳
保永堂版の「東海道五拾三次」は、東海道に53箇所あった宿場町に、日本橋(江戸)と三條大橋(京都)を加えた55枚の作品である。この『東海道五拾三次』の出版は、日本橋に店を構え「鶴屋」で知られていた大手の「仙鶴堂」(せんかくどう)(鶴屋喜右衛門)と、霊岸島塩町にあった小さな地本問屋(じほんとんや)「保永堂」(ほうえいどう)(竹内孫八)の両版元による共同刊行で始まった。
途中で、仙鶴堂が出版から手を引き、保永堂の単独刊行となり「保永堂版」と称されている。日本橋の浮世絵は、仙鶴堂版と保永堂版の2種類ある。また、、保永堂は図柄を変えて版木を彫直し「第二版」を制作したため,版木の異なる浮世絵がある。
『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、広重が安政3年(1856)2月から同5年(1858)10月にかけて制作した広重最晩年の作品である。最終的には完成せず、二代広重の補筆が加わって、「一立斎広重 一世一代 江戸百景」として刊行された。(全部で119枚)