1.『木屋江戸資料館』を訪ねて
JR清水駅より、『木屋江戸資料館』に向けて出発しました。
(清水歴史探訪より)
蒲原、由比、興津、そして江尻から府中へ、清水歴史探訪、
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内、各地に残された歴史の香りを訪ねます。
今回の目的は、蒲原市区旧東海道、国道一号線、JR東海道本線と、現在も東西を結ぶ交通路が、交錯するこの町で、全国でも珍しい三階建ての蔵を訪ねます。
昔のままの道幅で、当時の様子を留める旧東海道沿いに、その建物はありました。
現在も蔵を守り続けている渡邊家に、『木屋江戸資料館』館長、渡邊和子さんを訪ねました。
(清水歴史探訪より)
「渡邊家は、江戸時代の中期から後期にかけて、一番栄えた家です。そして、その当時の色々な資料が、江戸時代の耐震構造である三階建ての文書蔵という蔵に、今もたくさん残っています。その資料を基に、江戸時代の出来事を皆さんにお伝えしているのが、この『木屋江戸資料館』なんですね。」
「大きな蔵ということなんですが、その蔵を持っていたということは、この辺り一帯のかなり重要なお役目が、あったのでしょうか?」
「はい、江川太郎左衛門が、韮山のお代官様の時でございます、それまでうちはいろいろな商売をやっていたのですが、主に『木屋』という屋号で、材木問屋だったんです。その事業が、立派に成功しているということで、蒲原地区の財政再建を頼まれました。江川太郎左衛門さんから『問屋職』という職を与えられ、蒲原宿の経営を、何代かに渡って続けていくわけなんですが、その記録が残っています。」
「今も日本は、財政再建を色々言っているわけなんですが、その小規模なものがここにあったわけですね。」
「そうですね。色々時代は変わりますけれども、元禄(1688年~1703年)の頃は江戸も本当に華やかで、色々なお金を使っておりましたが、幕末に近づいていくと、色々な所で財政の危機になっていきました。ところが、今と違って、地方に色々な権限があったので、韮山のお代官様は民間登用を考えたわけです。いろいろなところで、普通の人達の格を上げ、お役を任せたわけです。うちもその一人になったわけですが、色々な民間の経営の仕方を、蒲原宿に当てはめていって、それで蒲原地区の財政再建を成し遂げるわけです。」
(清水歴史探訪より)
「蒲原宿の経営を命ぜられた次の代の人、渡邊金璙という『きんりょうさん』と呼ばれる人が、また大変立派な方でした。蒲原宿の経営だけでなく、今度は三島宿・岡部宿の財政再建も任されました。さらに江川さんから、『郡中総代』という、この辺、駿府から富士宮・富士の方まで、一帯を取り仕切る役も、仰せつかったわけです。
「その時に、今でいう色々な無駄を省いたり、人の使い方を教えたりしました。また、当家の家訓にある『人間としての生き方』などを、みんなに幅広に示していきました。それらの功績を示すものが、蔵の中にたくさん、今でも残っています。」
「そうしますと、その蔵の中に、残っている資料というのも、かなり広い範囲なのですか?」
「そうですね、蒲原宿の経営はもちろんなんですが、何代かに渡る日記が残っております。日記には、史上に残ること、起きた出来事、色々な出来事が、目をつぶると、本当に目の前に浮かんでくるような書き方で書いてあります。」
「幕末に行くに従って、日本は大動乱になっていくんですが、その頃の様子ですとか、安政の大地震(1855年11月4日日)のことが書いてあります。今回の東日本大震災のような大きな地震が、今から150年ぐらい前の安政時代にあったのですが、その時の被害も、きっちりまとめて伝えてあるわけです。そして、そういったものを伝えるというのが、今の私達の仕事なんです。」
安政大地震の記録です。
かなり水に浸かった様子がわかります。
安政大地震の被害が克明に記載されています。
(清水歴史探訪より)
「その蔵なんですけれども、先程、災害にいくつもあったという話なんですが、その安政の時の大地震といった時は、どんな様子だったのですか?」
「それについては、19代目の利左衛門守亮(もりあき)という人の日記に詳しく書かれております。その日記には、すごい被害にも関わらず、毎日の出来事が事細かに記録してあります。それらをうちの資料館の中で、道行く人達に気楽に見てもらおうと思っています。展示品を見れば、地震の被害の様子がわかると思います。」
「この時には、周囲の建物はみんなつぶれてしまって、その中で、この蔵だけは無事だたったそうですね?」
「そうです、この蔵だけが唯一残りました。後は、皆倒れてしまって、宿の半分は火事で焼けてしまいました。その時の瓦版、これは写しですが、それも残っていて、どこにどんな被害があったかもわかります。今でも、それぞれの家の屋号が、この蒲原地区では、あちこちに、まだそのまま残っております。どこの屋号の所が燃えたか、どこの所の誰が助かったか、亡くなったかというのが、みんなわかるんですね。いろいろな史跡も残っているので、江戸時代の地震の前はどんな地形であったか、その後どんな地形になったかも、この日記でうちの絵図と合わせていくと本当によくわかっていきます。」
「ご先祖から代々受け継いできたわけですね。」
「そうですね、これらの資料を残すための三階建ての文書蔵で、これらの資料を伝えていくというのが私達の役目かな、と思っています。」