4.姿を消した蒲原御殿そして蒲原城とは
(清水歴史探訪より)
姿を消した蒲原御殿、そして、蒲原城とはどのようなものだったのか。木屋江戸資料館 代表の渡邊俊介さんと、その場所を訪ねました。
「そうしますと、蒲原の宿にとっては非常に重要なものだったんですね。」
「昔はそうだったんですよね。
ただ、その建物をですね、時代がだんだん変わりまして、参勤交代の制度とか、本陣の制度とか、そういう制度が整備されていきますと、だんだん御殿を持っている意味といったのが失われていきますよね。
そこに、ちょうどと言ったらおかしいんですけど、元禄の大津波といういわゆる津波(実は高潮)が1699年に起こりまして、旧の街道に面していた建物がみんな高台のほうに逃れてきて新しい街並みが作られたという風な形になります。」
「昔はそうだったんですよね。
ただ、その建物をですね、時代がだんだん変わりまして、参勤交代の制度とか、本陣の制度とか、そういう制度が整備されていきますと、だんだん御殿を持っている意味といったのが失われていきますよね。
そこに、ちょうどと言ったらおかしいんですけど、元禄の大津波といういわゆる津波(実は高潮)が1699年に起こりまして、旧の街道に面していた建物がみんな高台のほうに逃れてきて新しい街並みが作られたという風な形になります。」
歴史街道にも指定されている旧東海道を渡ると、山側には若宮神社の鳥居が立っています。
「これは若宮神社。西町(にしちょう)の向こう方に和歌宮神社ありますよね。あそこがもともとで、こちらは分かれみたいな形になっているんですが。」
「じゃあ、こちらの方は後から。」
「(後から)できたという形になっています。」
「じゃあ、こちらの方は後から。」
「(後から)できたという形になっています。」
和歌宮神社は一説には700年代には造られたと言われております。これに対して若宮神社は1600年代造られたと言われております。
家康は信長の接待の為に、ここの蒲原の人たちを集めて、『何か面白いことはないか?』とかいうことで、(蒲原の人たちに)蒲原の古い民話とか言い伝えを話すようにさせたのです。
蒲原の方に昔から伝わる浄瑠璃姫の話とか、山部赤人の話とか、そんな話を色々しまして、信長を大変喜ばせたという風なことが言い伝えられています。
蒲原の方に昔から伝わる浄瑠璃姫の話とか、山部赤人の話とか、そんな話を色々しまして、信長を大変喜ばせたという風なことが言い伝えられています。
浄瑠璃姫の話は、清水歴史散策の第二十一話補陀落山(ふだらくさん)鉄舟禅寺を訪ねての「7.『薄墨の笛』と浄瑠璃姫の話」で出てきますが、少し説明いたします。
浄瑠璃姫の哀話
(「夢 出あい旅 サイバー五十三次」より)
この古浄瑠璃から歌舞伎の浄瑠璃と人形浄瑠璃が分かれていった。
また、近くには牛若丸が浄瑠璃姫に文を送った時に使用した清水の跡という源義経硯水の碑があって蒲原宿は古来より重要な宿場だったという。
山部赤人の話
山部赤人は、次の和歌で有名です。
田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の
富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ
田子の浦に うち出(い)でてみれば 白妙(しろたへ)の
富士の高嶺(たかね)に雪は降りつつ
この田子の浦とは、元々は蒲原の海岸だったそうです。