3.今なお残る蒲原御殿の痕跡
(清水歴史探訪より)
蒲原御殿の名残りは、宿場の街並みの中に残っています。
「今も宿場の中央から、特に西木戸の辺りにお寺がたくさんあって、それから町家が続いて、という形になっているんですが、この理由は何かあるんでしょうか。」
「御殿屋敷を拡張するときに、蒲原城の時代から広くするためにお寺を移動させたんですね。城源寺(じょうげんじ)も移っていますし、東漸寺(とうぜんじ)も現在の山の方に移っています。
長栄寺さんは、もっと海の方にあったのですが、これは元禄の大津波で被害を受けて山の方に移りました。その後、国道が出来た時とか、そういう理由もあるんですが、宿場のちょうど山側の方にずっと並んでいます。
「御殿屋敷を拡張するときに、蒲原城の時代から広くするためにお寺を移動させたんですね。城源寺(じょうげんじ)も移っていますし、東漸寺(とうぜんじ)も現在の山の方に移っています。
長栄寺さんは、もっと海の方にあったのですが、これは元禄の大津波で被害を受けて山の方に移りました。その後、国道が出来た時とか、そういう理由もあるんですが、宿場のちょうど山側の方にずっと並んでいます。
安政の大地震の時には、とても大きな山崩れが起きるんですね、その後の大雨で。山側にあったお寺の西木戸までぐらいのお寺のほとんどが、山崩れでみんな埋まってしまうんです。ですので、お寺にも、それ以前の資料というものは残っていないわけです。」
「そうしますと、今この蒲原御殿に関する、当時の資料、あるいは遺物というものはどの程度残っているのでしょう。」
「残念ながら、きちんとしたものはなくて、こういった色々な絵図とか、お寺の移動した記録ですとか、そういったことを調べながら突き合わせしていくと、『こういうことかな』というのが推測できるわけですね。」
「今はほとんど資料が残っていないということなんですが、当時としては、この御殿屋敷の敷地というのはかなり広かったようですね。」
「そうしますと、今この蒲原御殿に関する、当時の資料、あるいは遺物というものはどの程度残っているのでしょう。」
「残念ながら、きちんとしたものはなくて、こういった色々な絵図とか、お寺の移動した記録ですとか、そういったことを調べながら突き合わせしていくと、『こういうことかな』というのが推測できるわけですね。」
「今はほとんど資料が残っていないということなんですが、当時としては、この御殿屋敷の敷地というのはかなり広かったようですね。」
「そうですね。最初はそんなに広くはなかったと思うんですが、それが、秀忠・家光の時代になると、本当にとても広い敷地を持っていて、それ専用の御殿の道もあったり、それから今(は)桜の名所の御殿山があったり、それから海の方に続く道がずっとあって、そこから御殿に必要なものが直接運ばれる。そういった大きな規模のお屋敷だったようです。」
「そうしますと、宿場とこの御殿というのも深い関係だったんですね。」
「そうですね。その御殿屋敷があって、家光の時代までは、別の意味をもった宿場だったんではないかなと思います。」
「さて、この御殿屋敷のあった跡地なんですが、現在はどんな形になっているんでしょう。」
「先ほど申しましたように、宿場が移転されておりますので、今ずっと家並みが続いていまして、どの辺りかなっていうのは、神社があったり、お寺があったり、その場所でたぶんここからここの辺りだね、ということで、幸い史跡があちこちに残っているので、それで広さとかを推測することができます。」
「今、普通のお宅が建っているところが、もしかしたらその御殿屋敷の跡だったというところも多いわけですね。」
「そうですね。住んでいる方のほうが知らないと思います。御存知なくて、『ここに家康がいたんだ、信長がいたんだ』ということになるかもしれないですね。」
「そうしますと、宿場とこの御殿というのも深い関係だったんですね。」
「そうですね。その御殿屋敷があって、家光の時代までは、別の意味をもった宿場だったんではないかなと思います。」
「さて、この御殿屋敷のあった跡地なんですが、現在はどんな形になっているんでしょう。」
「先ほど申しましたように、宿場が移転されておりますので、今ずっと家並みが続いていまして、どの辺りかなっていうのは、神社があったり、お寺があったり、その場所でたぶんここからここの辺りだね、ということで、幸い史跡があちこちに残っているので、それで広さとかを推測することができます。」
「今、普通のお宅が建っているところが、もしかしたらその御殿屋敷の跡だったというところも多いわけですね。」
「そうですね。住んでいる方のほうが知らないと思います。御存知なくて、『ここに家康がいたんだ、信長がいたんだ』ということになるかもしれないですね。」