2.根岸錦蔵(ねぎしきんぞう)と福長浅雄(=朝雄)との出会い
(清水歴史探訪より)
「昔の飛行機は、二人乗りは前後になるのですね。」
「前後です。岸太一さんに飛行機の作り方や飛ばし方を覚えたのですが、岸さんの赤羽飛行機製作所が倒産してしまったところ、たまたま、福長(浅雄=朝雄)さんって人が天竜川の河口(浜松市竜洋町=磐田郡掛塚)で、福長飛行機研究所というのをつくったんです。
福長浅雄(ふくながあさお)
福長浅雄は戸籍によれば明治26年(1893)4月10日、静岡県浜名郡飯田村2番地(浜松市飯田町)に生まれた。父は利七、母は八重である。が、小作人であった父・利七の名前以外は事実ではない。村役場が火事になって戸籍原簿が焼失したので、戸籍係が自分の記憶をたよりに原簿をつくりなおし、確認をとらなかったためだ。ほんとうは福長朝雄である。
明治39年(1906)3月、中ノ町高等小学校(浜松市立中ノ町小学校)を卒業すると、浅雄は兄の市松と松之進が勤めている天竜木材会社に就職した。
その後、独立して製材業者として成功し、莫大な利益をあげた浅雄は多忙な日々を過ごすことになったが、徳川大尉がアンリ・ファルマン機を組み立てていることを知ると、浅雄はすぐに上京し、強引に「押しかけ助手」にしてもらった。
大正7年(1918)7月1日、浅雄は25歳で郷土訪問飛行を行った。この郷土訪問飛行で、浅雄はここに飛行場をつくろうと考えた。やがて浅雄は「福長飛行機研究所」を創立した。性能の秀れた飛行機をつくり、飛行士を養成し、定期航空便を飛ばす事業を本格化するためである。
明治39年(1906)3月、中ノ町高等小学校(浜松市立中ノ町小学校)を卒業すると、浅雄は兄の市松と松之進が勤めている天竜木材会社に就職した。
その後、独立して製材業者として成功し、莫大な利益をあげた浅雄は多忙な日々を過ごすことになったが、徳川大尉がアンリ・ファルマン機を組み立てていることを知ると、浅雄はすぐに上京し、強引に「押しかけ助手」にしてもらった。
大正7年(1918)7月1日、浅雄は25歳で郷土訪問飛行を行った。この郷土訪問飛行で、浅雄はここに飛行場をつくろうと考えた。やがて浅雄は「福長飛行機研究所」を創立した。性能の秀れた飛行機をつくり、飛行士を養成し、定期航空便を飛ばす事業を本格化するためである。
飛行練習生を募集すると、根岸錦蔵や鳥居清次、女性では今井小松(=雲井竜子)などが集まってきた。まだ無名ではあったけれどもこうした有望な青年を育てる一方で、浅雄は次々と飛行機を試作した。いまの飛行機と比較すればスタイルもずんぐりして玩具のように映るが、当時としては立派なものである。
浅雄は「天竜10号」で旅客輸送事業をはじめたいと航空局に申請した。もちろん郷土の天竜川の河口の飛行場が基地となるのだ。しかし、それは認可されなかった。旅客輸送に関する法律が、まだ日本になかったからだ。このため「天竜10号」は消えてゆかざるを得なかった。
しかし、浅雄のもとで育った鳥居清次は全日本空輸(全日空)創立につくし、今井小松は雲井竜子として有名になり、のちにNHKの『雲のじゅうたん』のモデルとなった。浅雄は青空の扉を開いたのである。
浅雄は「天竜10号」で旅客輸送事業をはじめたいと航空局に申請した。もちろん郷土の天竜川の河口の飛行場が基地となるのだ。しかし、それは認可されなかった。旅客輸送に関する法律が、まだ日本になかったからだ。このため「天竜10号」は消えてゆかざるを得なかった。
しかし、浅雄のもとで育った鳥居清次は全日本空輸(全日空)創立につくし、今井小松は雲井竜子として有名になり、のちにNHKの『雲のじゅうたん』のモデルとなった。浅雄は青空の扉を開いたのである。
この文章は、泉秀樹さんの『青空の扉を開いた男』から作成しました。
磐田市岡の竜洋郷土資料館にある福長飛行機関係資料
福長さんは浜松の人で、裕福だから自分で飛行場を作ったんです。作ったのは、天竜川の左岸、静岡寄りです。
大体、最初に造られた飛行場は、みんな海岸線なんです。落ちても人に迷惑がかからないし、砂浜をちょっと固めれば滑走路になっちゃうから簡単にできるのです。
ただし、所沢の飛行場は別ですけど、羽田の飛行場も海岸線ですね。成田空港なんかは、後からできたから海岸線からはずれた陸の中ですが、最初の飛行場はほとんど海岸線なのです。」
「そう言われればそうですね。」
「それから昔はね、水上機もあったんです。滑走路を使わないで、水上で離着陸する飛行機もあったのです。」
大体、最初に造られた飛行場は、みんな海岸線なんです。落ちても人に迷惑がかからないし、砂浜をちょっと固めれば滑走路になっちゃうから簡単にできるのです。
ただし、所沢の飛行場は別ですけど、羽田の飛行場も海岸線ですね。成田空港なんかは、後からできたから海岸線からはずれた陸の中ですが、最初の飛行場はほとんど海岸線なのです。」
「そう言われればそうですね。」
「それから昔はね、水上機もあったんです。滑走路を使わないで、水上で離着陸する飛行機もあったのです。」
「たしか、三保にも水上機が来てたんですよね?」
「東京、下田、三保と、清水にも水上機がと来たことがありました。その時には、小泉純一郎のおじいさん(小泉逓信大臣)が、(小泉純一郎の)お袋と一緒に来ました。清水の三保へ水上機で来たのですが、それは根岸錦蔵が活躍するより後になります。
根岸錦蔵は、天竜川の掛塚(磐田郡掛塚=浜松市竜洋町)というところで、福長浅雄という人の所(福長飛行機研究所)へ操縦の勉強に行くのです。
そうしたら福長浅雄は、何にも教えてくれないのです。金はとるのに、自分が覚えたものは教えないんです。しかも、飛行機は壊したら弁償しなければいけない。実は、根岸錦蔵は、飛行機を壊したことがあるのです。その当時は、家が日本橋で菓子問屋を営んでおり裕福だったので、お父さんが弁償してくれたのです。
そんなことがあって、根岸錦蔵は実家へ帰ったのです。そしたら大正12年(1923)に関東大震災が起きて、地震で実家の砂糖問屋が潰れてしまったのです。
根岸錦蔵は、天竜川の掛塚(磐田郡掛塚=浜松市竜洋町)というところで、福長浅雄という人の所(福長飛行機研究所)へ操縦の勉強に行くのです。
そうしたら福長浅雄は、何にも教えてくれないのです。金はとるのに、自分が覚えたものは教えないんです。しかも、飛行機は壊したら弁償しなければいけない。実は、根岸錦蔵は、飛行機を壊したことがあるのです。その当時は、家が日本橋で菓子問屋を営んでおり裕福だったので、お父さんが弁償してくれたのです。
そんなことがあって、根岸錦蔵は実家へ帰ったのです。そしたら大正12年(1923)に関東大震災が起きて、地震で実家の砂糖問屋が潰れてしまったのです。
そんなことがあって、根岸錦蔵が福長浅雄を訪ねると大井川の川根町に飛行機興業をしに行けと命じられたのです。実は、福長浅雄は大井川の川根町で、サーカスみたいな見世物興業をする約束で当時のお金で2,000円ほどもらっていたんですよ。そして根岸錦蔵に『お前が行け』と言ったんです。
根岸錦蔵はその時、雲井龍子(本名:今井こまつ)という女流パイロットと天竜川で共に勉強中だったのですが、雲井龍子は根岸錦蔵よりも一つか二つ年上で、家が裕福だったので自分自身の飛行機を持っていたのです。
根岸錦蔵はその時、雲井龍子(本名:今井こまつ)という女流パイロットと天竜川で共に勉強中だったのですが、雲井龍子は根岸錦蔵よりも一つか二つ年上で、家が裕福だったので自分自身の飛行機を持っていたのです。