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 7.五百羅漢(ごひゃくらかん)の話
(清水歴史探訪より)
 
 最後にご案内いただいたのは、仏殿の傍らに佇む五百羅漢(ごひゃくらかん)です。
 
 今回、来た時の五百羅漢さんは、草に覆われておりましたので、昔撮った写真をできる限り載せます。
 「『五百羅漢っていうのは500人いるのかね』っていう質問がよくあるんです。
 しかし、実際は、造られた石が砂岩(さがん)ということで風化に非常に脆い(もろい)石質になっていますので、割れちゃったり欠けちゃったりしているそうですから、500マイナスいくつかということになろうかと思います。
 清水歴史散策Ⅰの第六話で、『清見寺と清見ヶ関』で『3.五百羅漢の牛肉羅漢の話』を書きました。興味のある方は、こちらもご覧ください。
 
 清見寺には、五百羅漢が無造作に密集して置いてあります。この五百羅漢は、実はよそのお寺にあった羅漢さんです。そのお寺が倒産?したので、清見寺に持ってきたそうです。その為、羅漢密度が高い所に五百羅漢さんが並べてあります。この五百羅漢さんの一つを巡って、井上馨と住職との間で事件がありました。その羅漢さんが『牛肉羅漢』です。左側の羅漢さんが牛肉羅漢さんです。
 この時、ボランティアガイドの伏見鑛作さんからは上の羅漢さんを牛肉羅漢と紹介されました。しかし、清水歴史探訪の解説者の佐野明生さんの解説では、違う羅漢さんを牛肉羅漢さんと説明しておりました。
 平成29年7月改めて、伏見鑛作さんの説明が正しいことが分かりました。このことについては、清水歴史散策Ⅰの第六話『清見ヶ関と清見寺』の本文で改めて説明いたしました。
 また、『五百羅漢像というのはどういう意味だね』ってよく聞かれるんですけど、正式にはお釈迦様がお亡くなりになった後、お弟子さんがお経をまとめる作業をしたわけですね。そのときに集まった方が500人おいでになったということで、その500人っていうことを言われているようです。
 清見寺にあるこの五百羅漢は、天明年間って言いますから1780年代に造られたものです。当時は浅間山の爆発とか非常に天変地変が激しくて、悲惨な状態の時代でした。ですから、死後はせめて安心して暮らせるようにという願いを込めて造られたとも言われています。
 下の『桜の実の熟する時』は、清水歴史散策Ⅰの第六話『清見寺と清見ヶ関』の『3.五百羅漢の牛肉羅漢の話』で書いた物です。

桜の実の熟する時

島崎藤村著

 

小高い眺望(ながめ)の好い位置ある寺院の境内が、遠く光る青い海が、石垣の下に見える街道風の人家の屋根が、彼の眼に映った。

興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に、ちょうど人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔(せいたい)の蒸した五百羅漢(ごひゃくらかん)の石像があった。

起(た)ったり坐ったりしている人の形は生きて物言うごとくにも見える。

誰かしら知った人に逢えるというその無数な彫刻の相貌(そうぼう)を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之介が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。

捨吉は立ち去りがたい思いをして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖(とが)って口を開いて哄笑(こうしょう)しているようなもの、広い額と隆(たか)い鼻とを見せながらこの世の中を睨(にら)んでいるようなもの、頭のかたちは丸く眼は瞑(つむ)り口唇は堅く噛(か)みしめて歯を食いしばっているようなもの、都合五つの心像を写し取った。

五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌(そうぼう)を偲(しの)ばせるようなものもあった。磯子、涼子、それから勝子の面影をすら見つけた

『桜の実の熟する時』p187より

 一般的に、亡くなられたご先祖様に似た方がこの中に何人かいるんだと言われております。
 ここへ来たときに、「そのご先祖様に似た方が非常にいい顔していれば、あの世でもいい暮らしをしている。」とか、ここに来て「そのご先祖様に似た方と心のやりとりをする。そうすると、お帰りになる時にはすっきりした気分で帰れる。」というようなのが、言われています。」
 「はい。」
スタットラー著『東海道の宿』より
 われわれは清見寺の石段を登った。
 ときには仲間が拝んでいる間、1300年にわたって仏教が日本の歴史に及ぼした影響を感得することができた。
 家康が幼少のころ学んだ小さな部屋や慶喜が大政奉還のために京都に上る途中、一夜を過ごし、また明治天皇が日本を近代世界の一員とするために江戸へ向かわれる途中、泊られた別邸を参観した。
 けわしい段々畑が天然の円形劇場を形づくっている地点に立ち、世を救うように定められた釈迦の弟子、五百羅漢の石像を見上げた。
 風雪の試練とかびのため目鼻立ちが柔和になり、一部は欠けたり、壊れたりしていたが、杉の大木の葉漏れ陽に照らされながら、ドラマの信仰を追う観客のようにたたずんでいた。
 羅漢の数をかぞえて占う遊びをした。手当り次第に歳の数だけの石像をかぞえて最後に福相の石像に当れば、将来は幸福、貧相に当れば、将来はその相の如しというのである。
 筆者の場合、結果は判然としなかったようだ。清見寺を辞する折、石段の頂上から三保へかけて湾を見渡した。
斎藤襄治訳の387ページより
 朝鮮半島や琉球など、様々な文化の交差点として重要な役割を果たしてきた清見寺。
 
 かつては北方警備の要衝だったこの場所は、時代とともにその役割を変えてきましたが、今は歴史と文化を伝え保存する役割も担(にな)っています。
 
 お話は清見寺のボランティアガイドとして活動している、伏見鑛作(ふしみこうさく)さんでした。
 
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
 
 お相手は、石井秀幸でした。

 この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
 清見寺は、有名なので書かれたものは、いくつもあると思いますが、一つだけ紹介いたします。
 
清見興国禅寺と清見関
清水市(区)興津町
田中雨石さんの『ふるさと散歩』(昭和48年発行)より

 <清見寺>を語る前にちょっと<清見関>のことに触れてみよう。旧くはイオハラの国が清見関を設けた、というが確証は無いという。
 「清見寺記」には浄見原(天武)天皇の白鳳年間(670年頃)に清見関を開所した記録があるという。清見関が文書に見えたのは「天慶の乱」の時に『駿河国岬崎(くきざき)関為凶党被打破。・・・』の記事が見える。
 地理的に言って、山は迫って海に至るこの天与の要害を武将達が見逃すはずは無く、要路を押える関所が設けられたのも当然だろう。
 この関を守り、時には前進基地に、或は基地とする為には兵站部が必要である。砦もよし城もよかろうが、信仰心篤い往昔の武将=穿った考え方をすれば、信仰を利用することによって人心の安定を得ようとしたのかもしれない=達にとって、寺は重要な戦略的拠点となる。
 戦端が開かれれば、直ぐ基地となる。境内も広く、建物も頑強だから、大部隊の宿泊にも便利であり、平時から禅薬、武器、食糧の貯蔵庫ともなろう。
 門の大扉は敵を防ぐには恰好であろう。
 
 かくして清見関の近くに、平の将門(たいらのまさかど)が平安時代に、中国僧敬叟上人を迎えて<清見寺>を創建したといわれる。
 その後鎌倉中期の建長年間に聖一国師の弟子関聖明元が臨済宗を広めた。弘長3年(1263)浄見長者の寄進により京都より聖一国師を招いて再興の落成式があげられ、寺院としての形を整えたものと思われる。
 足利尊氏も、ここを軍事上の要害とみて、伽藍を備えるなどの寄進をし「興国」の寺号を与えている。
 
 永禄11年(1568)今川氏真は駿河に侵入した武田軍を迎え撃つため清見寺に本陣を置いている。
 血生臭くいろどられたこの寺も、豊臣、徳川時代を迎えて、その被護を受け、本来の禅堂としての精彩を放つようになった。家康手習の間、手植の梅(臥竜梅)にも、その名残りは見られる。
 その梅の前に与謝野晶子の<竜臥して法のことばを聞くほどに梅花の開く年となりけり>の歌が見られる。
 
 さて東海随一の名園(文部省名勝庭園指定)と言われる庭園も江戸中期の作(作者不明)とされている。
 この庭の<心字池>に懸る石橋にこんな話がある。
 『もとこの石は芭蕉の句「西東あわれは同じ秋の風」の句碑だったが、この碑を建てると町がさびれる、といわれこの寺に納められたが、縁起が悪いとされて、裏返して橋にされている』というものである。
 庭園の鑑賞は各自それぞれの主観によって、受け方も違うだろうから、先ずは観ることである。
 本堂の裏庭に並ぶ五百羅漢像も、寛政年間(1798~)の作とのこと。
 
 近世に至ってひときわ清見寺の名声を高らしめたものは高山樗牛の来訪と、その作になる「清見寺の鐘声」であろう。
 その名作の一節「鐘の音は・・・」は刻まれて庭の石碑に残る。
 
 因みにこの梵鐘は豊臣秀吉が小田原征伐の折使用され、鐘に正和3年(1314)の銘があり県指定文化財である。
 現代に至っては、磯打つ浪は遠く興津阜頭の堤防にさえぎられ「一の字」なる三保の松原も煤煙に霞み、往時のおもかげを偲ぶ由もないのは、かっての戦国時代に痛めつけられた清見寺に、再び現代の公害禍が及ぼそうとしている。
 然し幸いのことにレジャー施設の無い為か、訪れる人が心有る人達なるが故か境内は寂として心静かに鑑賞出来ることは有難いことである。
 
◇案内=国鉄(JR)興津駅からなら徒歩で15分位。
バスなら清水駅よりバス「東部国道線」又は「山手線」「沼津行」等で「清見寺前」下車。

 
註=本堂並びに庭園の拝観は案内を乞うこと。
⦿拝観料は「受箱」があるから適当に入れること。

 
余話=本堂の西端にある玄関(外からは戸が閉めてあって見えない)の天井板の数ヶ所に黒い斑点が見える。これは梶原景時の首実検をする為、それをここまで運んだ景時の馬も傷ついていて、その血の滴りが板に浸みこんだものを、後に天井板にしたのだという。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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