6.NHK人間講座『朝鮮通信使』の解説(中)
第5回 新居白石と雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)
天和2年(1682)第7回目の朝鮮通信使が来日します。この時の使命は、『生類憐れみの令』で有名な徳川5代将軍の綱吉(つなよし:1646~1709)の襲職祝賀であります。使節は、日本の凶作と災害のため日光へは行きませんでしたが、前回とほぼ同様の使節団でありました。この頃の対馬は朝鮮貿易によって最盛期を迎えておりました。
ところが、6代将軍の徳川家宣(いえのぶ:在職:1709年 - 1712年)になると家宣の侍講(じこう:学問の先生)である新居白石が出しゃばってきました。
正徳元年(1711)第8回の朝鮮通信使が来日します。新居白石は、両国の国際慣例を無視して将軍の呼び名を『日本国王』に変更したり、使節応接や儀礼変革を断行します。
この新居白石に対抗したのが、対馬藩の雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)であります。芳洲(ほうしゅう)は医者になることを断念して儒学者となった人です。対馬藩に仕官して、中国語や朝鮮語を学び日本と朝鮮の懸け橋となった人であります。新居白石のために自分の考えに反して朝鮮側を説得する立場になったことで有名であります。
享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で早世すると、徳川吉宗が第8代将軍に就任しました。吉宗は、新居白石を退け、老中の意見を用いることにしたのです。その結果、白石の改革はすべて旧令に復することになったのです。
享保4年(1719)第9回の朝鮮通信使が来日します。この時には雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)の活躍もあり、大きな紛争はありませんでした。
釜 山 ~ 対 馬
朝鮮通信使の船団は、対馬の最北端、佐須那浦(さすなうら)、または鰐浦(わにうら)に到着し、対馬藩の水先案内人の船に護行されて時計回りに西白浦、小船越などの港に立ち寄り藩の城下町厳原(いずはら)に到着いたしました。
厳原(いずはら)には、武家屋敷跡が数多く残っております。また、厳原では朝鮮通信使行列がある厳原港まつり対馬アリラン祭が有名だったのですが、2012年に対馬仏像盗難事件が起きアリランの名称は削除されました。
なお、昭和24年(1949)、李承晩は対馬は韓国領として日本に「返還」を要求しましたが、当時のGHQは「根拠がない」として拒否いたしました。
次に、平成17年(2005)、韓国馬山市議会は、「對馬島の日」条例を可決しました。現在の韓国政府は李承晩時代のように対馬の領有を主張しているわけではありませんが、韓国の世論調査によると「対馬は韓国の領土」との主張に賛成する人は過半数であります。
朝鮮通信使の一行は、この対馬を出た後、壱岐の島に向います。
壱 岐 の 島 ~ 相 島 ( 藍 島 )
赤間関(下関)~上関(竈関:かまどがせき)
朝鮮通信使の一行は、途中、向浦で船上泊をした後、上関に向かう。上関町のホームページを見ると『朝鮮通信使ゆかりのまち~上関』と宣伝があり、そこには『朝鮮通信使船上関来航図』の画像があった。早速、拝借し掲載いたします。
上関~安芸の蒲刈~備後の鞆浦~備前の牛窓
上関を出た一行は、安芸(あき)の蒲刈(かまがり)に向います。蒲刈は蒲刈町の時代を経て現在は呉市の一部になっております。この蒲刈で一泊した一行は、備後の鞆の浦(とものうら)に向います。鞆の浦は現在は福山市の一部ですが古代から景勝の地として有名です。
鞆の浦を出発した一行は、備前の牛窓に向います。牛窓は牛窓町を経て瀬戸内市の一部のなっております。日本のエーゲ海が売りの一つですが、『唐子踊り』でも有名です。
備前の牛窓~播磨の室津~兵庫津
一行は、備前の牛窓から播磨の室津(たつの市)を経て瀬戸内海最後の停泊地兵庫津(神戸港)へと向かいます。