4.朝鮮通信使の歴史
(清水歴史探訪より)
この方丈にも、朝鮮通信使の記録が残されています。
正確には、字の少ないものは『扁額(へんがく)』、字の多いものは『懸板(かけいた)』とか言っていますけど、まあそういった区別が難しいのでまあ全てを『扁額』と言っていただいてもけっこうだと思います。
いわゆる真筆(しんぴつ)の部分とこの扁額の部分をあわせて69点あります。そのうち48点が墨で描いたものです。それが平成29年度、世界記憶遺産に昇格する予定なのです。申請は平成28年3月に終えております。来年のいつになるかちょっと明確には分かりません。けれども、世界記憶遺産になることに、非常に期待がかかっております。」
「そうですか。ところで、この扁額にはどんな内容が書かれているんでしょうか。」
「これはですね、時代時代によって違うのです。これらの扁額は、一時代(いちじだい)の人が、書いているのではありません。時代によって内容が異なっているのです。
最初は、朝鮮通信使の外交的な要素が多かったようです。時代が経つにつれて文化的な要素が多くなって行きます。
また、時代が段々後ろに行くほどたくさん書かれています。
いわゆる真筆(しんぴつ)の部分とこの扁額の部分をあわせて69点あります。そのうち48点が墨で描いたものです。それが平成29年度、世界記憶遺産に昇格する予定なのです。申請は平成28年3月に終えております。来年のいつになるかちょっと明確には分かりません。けれども、世界記憶遺産になることに、非常に期待がかかっております。」
「そうですか。ところで、この扁額にはどんな内容が書かれているんでしょうか。」
「これはですね、時代時代によって違うのです。これらの扁額は、一時代(いちじだい)の人が、書いているのではありません。時代によって内容が異なっているのです。
最初は、朝鮮通信使の外交的な要素が多かったようです。時代が経つにつれて文化的な要素が多くなって行きます。
また、時代が段々後ろに行くほどたくさん書かれています。
このお寺は非常に景色が良かった。さらに、お寺さんの住職さんの漢詩の素養が非常に高かった。その結果、唱酬(しょうしゅう)ができたのです。唱酬(しょうしゅう)とは、朝鮮通信使の方とこのお寺の住職さんが漢詩のやりとりをすることなのです。
唱酬(しょうしゅう)できたということは、そういう文化人の和尚さんがいたっていうことがです。その結果、こういう扁額がたくさん残っているのだと思います。」
「時代としては、どんな時代からどんな時代まで。」
「時代的にはですね、1607年の慶長12年から文化8年の1811年です。この期間の200年ちょっとの間に、12回朝鮮から派遣されております。しかし、そのうち2回は、別のところへ開かれたのです。
唱酬(しょうしゅう)できたということは、そういう文化人の和尚さんがいたっていうことがです。その結果、こういう扁額がたくさん残っているのだと思います。」
「時代としては、どんな時代からどんな時代まで。」
「時代的にはですね、1607年の慶長12年から文化8年の1811年です。この期間の200年ちょっとの間に、12回朝鮮から派遣されております。しかし、そのうち2回は、別のところへ開かれたのです。
朝鮮通信使の訪日は、全部で12回しかなかったのです。ほとんどが、将軍家の交代の時でした。
第 1回 1607年 (慶長12年) 徳川秀忠 帰途、駿府で家康に謁見
第 2回 1617年 (元和 3年) 徳川秀忠 伏見まで
第 3回 1624年 (寛永元年) 徳川家光
第 4回 1636年 (寛永13年) 徳川家光
第 5回 1643年 (寛永20年) 徳川家光
第 6回 1655年 (明暦元年) 徳川家綱
第 7回 1682年 (天和 2年) 徳川綱吉
第 8回 1711年 (正徳元年) 徳川家宣
第 9回 1719年 (享保 4年) 徳川吉宗
第10回 1748年 (寛延元年) 徳川家重
第11回 1764年 (宝暦14年) 徳川家治
第12回 1811年 (文化 8年) 徳川家斉 対馬に差し止め
第 2回 1617年 (元和 3年) 徳川秀忠 伏見まで
第 3回 1624年 (寛永元年) 徳川家光
第 4回 1636年 (寛永13年) 徳川家光
第 5回 1643年 (寛永20年) 徳川家光
第 6回 1655年 (明暦元年) 徳川家綱
第 7回 1682年 (天和 2年) 徳川綱吉
第 8回 1711年 (正徳元年) 徳川家宣
第 9回 1719年 (享保 4年) 徳川吉宗
第10回 1748年 (寛延元年) 徳川家重
第11回 1764年 (宝暦14年) 徳川家治
第12回 1811年 (文化 8年) 徳川家斉 対馬に差し止め
朝鮮通信使には、いろんな役職がありました。三使という正使・副使・従事官という方が1番上の方です。上上官とか上官・中官・下官というそういう役職もありました。いろんな役職で構成されていたわけですね。
しかし、警護したり昼食の準備をしたり荷物を持ったりっていう仕事は、日本人がやりましたので、朝鮮通信使の行列は全部で2500人から3000人の大部隊ということになったようです。」
「江戸時代の外交と言いますと長崎の出島、というイメージが強いんですけども、それ以外にもこんなことがあったわけなんですね。」
「そうですね。外交には、国の偉い方とのお付き合いや民間団体とのお付き合いと、まあ2種類あると思います。
この清見寺の住職さんと朝鮮通信使の方々とのおつきあいは、まあいわゆるどっちかっていうと民間外交というか民際(みんさい)ということになるのではないかなって思います。」
しかし、警護したり昼食の準備をしたり荷物を持ったりっていう仕事は、日本人がやりましたので、朝鮮通信使の行列は全部で2500人から3000人の大部隊ということになったようです。」
「江戸時代の外交と言いますと長崎の出島、というイメージが強いんですけども、それ以外にもこんなことがあったわけなんですね。」
「そうですね。外交には、国の偉い方とのお付き合いや民間団体とのお付き合いと、まあ2種類あると思います。
この清見寺の住職さんと朝鮮通信使の方々とのおつきあいは、まあいわゆるどっちかっていうと民間外交というか民際(みんさい)ということになるのではないかなって思います。」
写真は、葛飾北斎筆「由井」
北からの脅威に備えるために置かれた清見ヶ関を発祥とする清見寺は、朝鮮半島との長い国際交流の歴史を今に伝えています。
お話は、清見寺のボランティアガイドとして活動している伏見鑛作(こうさく)さんでした。
さて、清見寺には他にもこの地の歴史や、朝鮮半島以外との交流を伝える資料がたくさん伝えられています。
この続きは、次回のこの時間にご紹介しましょう。
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
お相手は、石井秀幸でした。
この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いの税理士法人いそべ会計がお送りしました。税理士法人いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
今回、私は朝鮮通信使の歴史に非常に興味を持ちました。次のページで、朝鮮通信使についての勉強の成果を発表いたします。