9.解説・JAPANESE INN(水口屋)その3
街道沿いの役人にとって将軍家の御用品の通過ほど神経をつかうものはなかった。特に御用茶は特別だった。どんな有名な大名も道を譲り、旅人は土下座した。
しかし、元禄7年(1694)に事件が起きた。御用茶掛かりの3人の内、多羅尾(たらお)という顔が皮膚病により醜い男が同僚から嘲笑され、その同僚を斬ってしまったのである。
この結果、多羅尾は近くの日蓮宗の耀海寺(ようかいじ)で切腹しするのだが、その際『追善のため祠を建ててくれれば、お参りに来る人々の病気を治して進ぜる。』と言った。祠が建てられ、巡礼が来るようになった。
第8章 清見寺前の膏薬店
オランダ人医師・ケンプエルの報告には、
「店といわんよりはむしろ露店ともいうべきものありしことなり。各店先に十歳ないし十二歳の少年一人、二人、あるいは三人屯(たむろ)せり。身綺麗になし、顔に紅、白粉の類をば塗り、女人のごとく品を作る。性下劣、無慈悲なる主に囲われ、裕福なる旅人の淫楽の用に供せられる。日本人この悪習に染むること深し。」とあります。
スタットラーによると、その当時日本では男色は当たり前だったそうです。
僧侶は女色を禁じられており、武士は戦陣で小姓が修道(同性愛)の対象となりました。1716年頃に書かれた『葉隠』には、武士道における男色の心得が説かれ、武士における衆道は命がけのものが最高のこととされておりました。
洒落本に載った清見寺の稚児(膏薬売り)
清見寺の稚児は、当時の大衆文学「洒落本」にも取り上げられました。「公家の釜国と従者の角平は、陰間好みで有名である。清見寺に着いた時の彼らの喜びは想像に余る。一軒一軒、各店の商品を味見したため、町を出る時には膏薬の荷が重く、角平は大きな包みを肩に担いで歩かねばならなくなった。」という話です。
西鶴の「清見寺の仇討ち」
次に、西鶴も清見寺を舞台に仇討ちの物語を書いております。「遊郭で侍が喧嘩して殺害。殺された妻子と弟が仇討ちの旅にでます。ところが、弟が妻と横恋慕の後、妻に殺され妻も自害。残された子供は清見寺の稚児として奉公。殺害した侍は自ら討たれるため稚児を探したが行き違い、興津で死亡し土葬。成人した稚児が亡骸に敵討ち。」という話です。西鶴の手によってどのような好色本になったかはご想像にお任せします。
清見寺の美少年は、能「三井寺」にも登場します。このように、興津の稚児は全国的にも有名だったようです。
ただ、このような女装した稚児の薬売りの時代は長く続かず、18世紀後半には膏薬だけの商いとなりました。さらに、鉄道開通とともに膏薬売りも街道の歴史から姿を消していったのです。
第9章 東海道の陽気な巡礼(6代目、7代目)
6代目・望月半蔵の息子望月半四郎は、伊勢参りに行く時期になっていた。この当時、一人前の男は伊勢参りに行くのが当然だった。伊勢参りに半四郎が行って帰ってきたら、半蔵は隠居するつもりだった。
伊勢参りは陽気な巡礼で誰もが行きたがっていた。伊勢参りに行くために伊勢講に加わっていたが当たる確率は低かった。しかし、費用を自弁すれば一行に加わることができたのだった。
この伊勢巡りには、半四郎の美人の嫁や半四郎と仲の良い水口屋の若い番頭も同行したがったが、半四郎の選んだ旅行相手は半四郎の友達二人だった。彼らは自費で講に当たった一行に加わり、伊勢巡礼に出発した。
伊勢の巡礼は予想通り楽しかった。
興津に凱旋帰国した半四郎を待っていたのは、妻と番頭の金銭持ち逃げと駆け落ちだった。駆け落ちした妻と番頭は静岡でつかまり、処刑場に引き立てられた。
この事件があった1か月後、半蔵は卒中でで亡くなった。
伊勢参りの中には「抜け参り」といって、金も準備もろくにしないで勝手に巡礼に行くものもあった。ケチな金持ちの中には、見送りも土産もいらない「抜け参り」をするものもあった。
もちろん、伊勢講を組織してしっかり準備して行くものもあった。彼らは水口屋の上得意でもあった。
ところで、60年に一回ぐらい熱に浮かれたように、我も我もと参宮に抜け参りに行くことがあった。わずか50日間で300万人以上が伊勢に押しかけたという記録がある。しかし、この参宮熱は突然おさまったという。俗にいう「おかげ参り」である。
私は、幕末に「ええじゃないか」騒動があったので、この「おかげ参り」の延長かと思ったのですが、別物との意見が主流のようです。