8.解説・JAPANESE INN(水口屋)その2
第4章 水口屋との出会い
終戦後、マッカーサ―司令部はほとんどの公共施設を占領軍の「立入禁止」にしてしまった。その代わり劇場やホテルの一部は占領軍の専用となった。しかし、スタットラーとその同僚は日本の魅力を探ってみたい気持ちで一杯だった。
家康がキリスト教を禁じるまでの間、東海道にはイエスズ会の僧やフランシスコ派の僧が来て信仰を広めた。外国人はすべて宣教師ではなく、『按針様』と呼ばれた英国人・アダムスもいた。彼は水口屋に宿泊し望月老人と親しくなった。アダムスは船が難破した後、家康から直接尋問を受け後に家康の信頼を得て、顧問となっていたのでした。
家康は最初はキリスト教に寛容でしたが、途中からキリスト教を禁止しました。教会は壊され、その場所は遊郭に指定されたのです。
家康は、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした後、亡くなってしまいます。遺体は、久能山に埋葬されます。
家康が亡くなった後、アダムスが亡くなり望月老人もなく亡くなります。望月老人が亡くなった後に、息子は『水口屋』の看板を家の前に掛けたのでした。
第5章 水口屋 由井正雪の乱に関連(4代目)
慶長4年(1651)9月7日の夜、暴風雨の中三人の旅人が水口屋に泊まりに来ます。断ることもできず泊めてしまったのが、由井正雪の一行だったのです。
正雪は、由比の染物屋で生まれ、親が僧侶にするため、静岡の臨済寺に預けられます。臨済寺は今川の軍師・雪斎禅師のいたお寺です。ここで、兵法や武芸を学んだ正雪は策略を用いて、楠木正成の末裔と偽り、次第に兵法師範として有名になっていきます。この当時は、40万人といわれる浪人がおり、天下の騒乱を望んでおりました。
正雪は、徳川転覆の陰謀を企てます。この正雪の主な部下に加藤と丸橋がおります。この加藤とその一行は、京都に向いますが、加藤の高弟の一人が軍資金を使い込み姿を消してしまいます。
さらに、丸橋は急病で倒れ、陰謀を実行に移すのが3か月間遅れてしまいました。
正雪たちは再び準備を立て直します。まずは、丸橋が江戸で火薬庫に爆弾を仕掛け爆発させます。江戸じゅうが火の海になった中を徳川家の旗印をもった火消しに扮した丸橋達が江戸城に押し入る手はずでした。その後、静岡と京都で兵を挙げる予定だったのです。
ところが、丸橋も軍資金を使い果たし、借金を重ねていたのです。債権者から返済を迫られた丸橋は、借金は十倍にして返すと説明するのですが、債権者は納得しません。ついに、丸橋は陰謀を打ち明けてしまったのです。
債権者はすぐにお上に訴えます。丸橋は逮捕され、正雪の人相書きと逮捕状が出され、早飛脚が正雪を追い越すのです。
知らぬが仏の正雪は、襲撃するつもりの場所を子細に確認し、梅屋という宿屋に向ったのです。宿屋には同志達がすでに到着しておりました。同時に、捕り方も準備をしておりました。
正雪が碁を打っている時、女中が来て『会いたいという人が来ました。』と告げ、正雪が『どうゆう人か?』と尋ねると、『お上の人のようです。』と答えました。
正雪の部下は戦って死ぬことを主張しますが、自決を選択します。辞世の句を書き切腹します。同時に捕り方が、なだれこんで来ました。(しかし、こんな時に辞世の和歌とは・・・)その後、水口屋の望月がどのような取り調べを受けたかはご想像にお任せします。
ところで、実は幕府はオランダと組んでフィリッピンを占領する予定でした。ところが、寛永14年(1637)に島原の乱が起き、その反乱にてこずり、フィリッピン占領をあきらめ鎖国政策採用します。正雪の乱はその後起きたので、正雪はキリシタンと考えられたようです。
第6章 水口屋の賓客(6代目・7代目)
水口屋の最も古くからの上得意は、松坂屋の伊藤家で、伊藤家は元禄4年(1691)からの得意先であります。この頃の水口屋は6代目の望月半蔵でした。
若い伊藤は大番頭と江戸まで旅をしておりました。番頭は旅慣れており、各地の豊富な知識を持っており、興津についても詳しかったようです。水口屋では伊藤は特別な接待を受け、女中とも一晩ねんごろになったようでありました。伊藤家の日記に『心尽しの歓待を受く』とありますが、女中さんの個人的な接待が含まれていたかはわかりません。
半蔵は送りながら、さった峠の『追いはぎの碑』の話をしました。追いはぎの父親が息子と知らず殺してしまい、息子と分かってから自殺したという『親知らず子知らず』のいきさつのある碑です。
東海道のどの宿(しゅく)にも宿役場があり、そこには高札が立ち並び、出番を待つ馬子や駕籠かきがいた。宿(しゅく)役場の人馬は公用の場合には無料で、大名は公定料金を支払った。また、公用文を運ぶ飛脚もいた。宿役場には村の大半が雇われていたが、足りない時には近村から徴用することができた。使役がいやな者は過料を支払った。
街道で労働して暮らす者は、荒くれた頑丈な体に刺青をした特別な種族であった。かれらは酒代で客のあしらいを加減し、おどして酒代を増額させたりした。
興津宿の有力者は、市川と手塚の両名で本陣(宿屋)を経営するとともに興津川の渡し場の管理をしていた。本陣は大名と公家の専用で、本陣に次ぐのが脇本陣の水口屋である。脇本陣は商人を泊める事ができた。
オランダ人は年に一度将軍に会うため江戸に来た。本来は、オランダ人は本陣に泊まる資格があるが、大名と遭遇する度に格下げの待遇を受けるため、水口屋に泊まった。水口屋はオランダ人を泊めるため一種の牢屋に作り変えた。
オランダ人に同行した医師ケンプエルは、詳細な旅行記を記した。街道や関所・大名行列・山伏や比丘尼などのいろいろな旅人についても記載し、今日では重要な史料となっている。
オランダ人は年に一度将軍に会うため江戸に来た。本来は、オランダ人は本陣に泊まる資格があるが、大名と遭遇する度に格下げの待遇を受けるため、水口屋に泊まった。水口屋はオランダ人を泊めるため一種の牢屋に作り変えた。
オランダ人に同行した医師ケンプエルは、詳細な旅行記を記した。街道や関所・大名行列・山伏や比丘尼などのいろいろな旅人についても記載し、今日では重要な史料となっている。