1.神明山古墳のある袖師神明宮を訪ねて
昭和48年発行の『ふるさと散歩』より
神明古墳 清水市(区)袖師町
古墳を尋ねても、其処には殆んど見る可き何ものも無いのが普通である。(特殊の地域を除いて)古墳というものは、それを発見し、発掘する労苦と喜びを知らぬ者にとっては、唯掘り返された土くれの上に=建札或は記念塔が=建つのを見るだけである。
然しそれと承知で訪ね廻るのは我々の心の中の叫びがそうさせるのかも知れない。
1000年以上も前の祖先の眠る古墳の上に立ってヂット目を閉じる。そこに果し無い夢がひろがる。
一個の勾玉(まがたま)は、当時の人にとっては今日我々が驚異の眼で見る<月の石>以上のものだったかも知れない。
神明古墳は典型的な前方後円墳で、紀元5世紀松の豪族の古墳で<三池平古墳>につぐもので、「イオハラの国」の主権者の墓といわれる。この神明古墳は一種の古墳群とも言えるものを残している。
(1)神明東築山古墳―神明神社の東北、伊藤勝秀(嶺の法印といった)の家の西に築山と称せられた円型墳があって明治9年(1876)開墾した時に覆石が現れ、円鏡1個(山田昌徳蔵)、碧玉石の勾玉5個(天野観明蔵)及び直刀が出土した。
(2)神明神社本殿前古墳=神明神社本殿の西側附近に、昔から長さ2尺5寸位の平石2枚あり、明治年間数人がここを掘り古墳、銅剣等を得たという話がある。
(3)神明神社西古墳―神明神社の西南丘陵の東下の畑地で、昭和の初め古い墓が発掘され、直刀、土器が発見されたという。
◇案内=清水よりバス東名行なら「インター入口」下車すれば目前にある。庵原線(伊佐市、吉原、茂畑行)なら「神明前」下車徒歩3分。
註=現在は、東側は東亜燃料体育館の敷地に(写真はその中に建つ)なり、西側は高速道路への導入路の為削り取られ、中央部の神明神社に聳える椎の大木のみが移りゆく余の姿を見下ろしているようである。
私たちは、神明宮を目指して事務所を出発しました。神明宮は、東名清水インターの近く神明山古墳の上にある神社として有名です。
ある資料によると、『紀元五世紀末の豪族の古墳。いほはらの国の主権者の死に当り、神明山に壮大な墓を造って葬り円立の表面を丸石で敷きつめた非常に立派なものであった。その後次々と支配者が葬られ、歳月は流れてこの祖先の眠る神聖な場所へ祖先を崇拝するため神明神社が祀られて一族の氏神になったと考えられる』と記載されておりました。
ある資料によると、『紀元五世紀末の豪族の古墳。いほはらの国の主権者の死に当り、神明山に壮大な墓を造って葬り円立の表面を丸石で敷きつめた非常に立派なものであった。その後次々と支配者が葬られ、歳月は流れてこの祖先の眠る神聖な場所へ祖先を崇拝するため神明神社が祀られて一族の氏神になったと考えられる』と記載されておりました。
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第2土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
日本の陸の大動脈のひとつ、国道一号線バイパスと東名高速道路が接続するすぐ近く、庵原交差点の脇に小高い山がそびえています。
鎮守(ちんじゅ)の森という風情のこの場所には、静岡県の史跡にも指定されている、いくつかの古墳が眠っています。静岡市埋蔵文化財センターの菊田宗(きくたはじめ)さんにご案内いただきました。
上記の碑分には次のようなブログがありました。
神明神社境内の古墳説明碑
碑文を真面目に紐解いてみる。「この古墳は5世紀末の豪族の墓」と在るが主体未発掘で副葬品もわからない。築造時期の決め手がない。築造位置、墳丘の劣化状態から考えて、竪穴粘土槨の4世紀代の墓に思える。
「円立の表面を丸石で敷きつめた」これは葺き石をさすのであろうが墳丘に葺き石らしき石はほとんど残っていない。
「その後次々と支配者が葬られ、神明東築山古墳・・・」4号墳、3号墳、5号墳をさしているのであろうが、神明山が集落の共同墓域であって、支配者の係累が埋葬されたことにはならない。
「時が流れて・・・先祖崇拝するため神明社が祀られ一族の氏神となった。」一般に神明宮は天智天皇時代に祀られた伊勢神宮系。日本書紀編纂の時創作された天照大神が、庵原に縄文時時代から住む人々の氏神ではない。日本武尊の副将軍吉備武彦(きびたけひこ)の子孫、意加部彦(おかべひこ)が庵原の国造になり支配したという伝承も1号墳と時代が合わない。吉備武彦の租神は神明宮の主祭神とは異なる。鎌倉時代以降、南北朝時代に天皇崇拝の一環としてこの地に神明神社が祀られたのであろう。
「私達の祖先が上嶺一帯の・・・袖師文化の発祥の地」袖師浦の周辺は縄文時代から人が住み、方形墓や前方後方墳が築造され、大和地方とは無為関係に続いた袖師文化の発祥地なのである。大和勢力に「まつろわぬ」邑(むら)単位の豪族が居て、日本武尊が苦戦したことを古事記が伝えている。
「円立の表面を丸石で敷きつめた」これは葺き石をさすのであろうが墳丘に葺き石らしき石はほとんど残っていない。
「その後次々と支配者が葬られ、神明東築山古墳・・・」4号墳、3号墳、5号墳をさしているのであろうが、神明山が集落の共同墓域であって、支配者の係累が埋葬されたことにはならない。
「時が流れて・・・先祖崇拝するため神明社が祀られ一族の氏神となった。」一般に神明宮は天智天皇時代に祀られた伊勢神宮系。日本書紀編纂の時創作された天照大神が、庵原に縄文時時代から住む人々の氏神ではない。日本武尊の副将軍吉備武彦(きびたけひこ)の子孫、意加部彦(おかべひこ)が庵原の国造になり支配したという伝承も1号墳と時代が合わない。吉備武彦の租神は神明宮の主祭神とは異なる。鎌倉時代以降、南北朝時代に天皇崇拝の一環としてこの地に神明神社が祀られたのであろう。
「私達の祖先が上嶺一帯の・・・袖師文化の発祥の地」袖師浦の周辺は縄文時代から人が住み、方形墓や前方後方墳が築造され、大和地方とは無為関係に続いた袖師文化の発祥地なのである。大和勢力に「まつろわぬ」邑(むら)単位の豪族が居て、日本武尊が苦戦したことを古事記が伝えている。
「今神社の鳥居の前ですけども、この奥に古墳があるわけなんですね。」
「そうですね。2通り呼び名がありまして“しんめいやまこふん”と“しんめいさんこふん”という呼び名がありまして、今は神明山古墳(しんめいさんこふん)ていう風に登録されております。
ちょうど神社の鎮守の森のような形になっているところに、今も、古墳が2つ存在しておりますので、一緒にご覧いただければと思います。」
「それではよろしくお願いします。」
「お願いします。」
「そうですね。2通り呼び名がありまして“しんめいやまこふん”と“しんめいさんこふん”という呼び名がありまして、今は神明山古墳(しんめいさんこふん)ていう風に登録されております。
ちょうど神社の鎮守の森のような形になっているところに、今も、古墳が2つ存在しておりますので、一緒にご覧いただければと思います。」
「それではよろしくお願いします。」
「お願いします。」