9.解説『景行天皇と日本武尊』その4
18.尾張への道
武蔵の秩父に向った日本武尊は北関東一帯を平定した後、西に向きを変え信濃方面に向いました。
信濃(長野)から美濃(ぎふ)へ、そして宮簀媛(みやずひめ)の待つ尾張へ向かった日本武尊に訃報が入ります。宮簀媛(みやずひめ)の兄で、日本武尊の忠実な部下・建稲種命(たけいなだねのみこと)が美しい鳥を献上しよとして、船が転覆して溺死してしまったのです。
日本武尊は、潮の満ちるの待って尾張氏の館に駆け込み、尾張オトヨ(宮簀媛の父)と宮簀媛(みやずひめ)と対面します。さっそく、日本武尊は宮簀媛(みやずひめ)との夫婦の契りを結ぼうとしたのですが、宮簀媛(みやずひめ)は月経の最中だったと『古事記』には記載されております。
日本武尊は宮簀媛(みやずひめ)のもとに長期間滞在しましたが、子供が出来なかったそうです。日本武尊は最大級の感謝の気持ちを表し、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から授かった『草薙の剣』を宮簀媛(みやずひめ)に授けてしまいました。
そして、伊吹山に出発するのです。
『古事記』によると、「御刀(みはかし:草薙の剣)を宮簀媛(みやずひめ)のもとに置いて、伊服岐(伊吹)の山の神を討ち取ろうとお立ちになられた。
この時に『この山の神は素手で取ってみせる』と豪語して、その山にお登りになられた。すると白い猪(いのしし)が麓(ふもと)に現れた。その大きさは牛のように巨大であった。
そこで『この白い猪(いのしし)の姿をしているが、神の使いにすぎぬ。今ここで殺さなくとも帰り道で十分間に合うだろう』と言挙げ(ことあげ)して、はっきりと仰せになり、登っていかれた。
すると山の神は大雨を降らせて日本武尊を打ちつけ、そのため意識が朦朧(もうろう)となってしまわれた。実はこの白い猪になって現れたのは、神の使者ではなく、まさに神ご自身であった。それを言挙げ(ことあげ)してしまったせいで、神のお怒りにふれたのである」。
この時に『この山の神は素手で取ってみせる』と豪語して、その山にお登りになられた。すると白い猪(いのしし)が麓(ふもと)に現れた。その大きさは牛のように巨大であった。
そこで『この白い猪(いのしし)の姿をしているが、神の使いにすぎぬ。今ここで殺さなくとも帰り道で十分間に合うだろう』と言挙げ(ことあげ)して、はっきりと仰せになり、登っていかれた。
すると山の神は大雨を降らせて日本武尊を打ちつけ、そのため意識が朦朧(もうろう)となってしまわれた。実はこの白い猪になって現れたのは、神の使者ではなく、まさに神ご自身であった。それを言挙げ(ことあげ)してしまったせいで、神のお怒りにふれたのである」。
●思邦歌(くにしのびのうた)
日本武尊は、ついに能褒野(のぼの:三重県鈴鹿市加佐登町)まで戻ってきた。疲れきった日本武尊は、父母の待つ大和を偲んで、歌をうたった。
景行天皇が、かつて日向でうたった「思邦歌(くにしのびうた)」であった。
日本武尊は、ついに能褒野(のぼの:三重県鈴鹿市加佐登町)まで戻ってきた。疲れきった日本武尊は、父母の待つ大和を偲んで、歌をうたった。
景行天皇が、かつて日向でうたった「思邦歌(くにしのびうた)」であった。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく
青垣 山隠(ごも)れる 倭し (やまとし)美し(うるわし)
命の全(また)けむ人は 畳薦(たたもごも) 平郡の山の
熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
大和は最もすぐれた国 青々とした山が重なり 垣根のように包む 大和は美しい 無事に生きている者たちは 平郡の山の 神聖な白樫の枝を 髪飾りにして挿しなさい おまえたちよ
日本武尊は、能褒野(のぼの)において死去した。時に、32歳であったという。景行天皇は、伊勢に「能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)」を築いて日本武尊を葬った。
●白鳥伝説
3つの白鳥陵
『日本書紀』に記載された日本武尊伝説に基づいて、宮内庁は次の3つの陵墓を日本武尊の墓として管理しております。
●三重県亀山市田村町にある日本武尊能煩野墓
●奈良県御所市冨田にある日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)
●大阪府羽曳野市軽里にある日本武尊白鳥陵
●三重県亀山市田村町にある日本武尊能煩野墓
●奈良県御所市冨田にある日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)
●大阪府羽曳野市軽里にある日本武尊白鳥陵
●景行天皇の東国巡行
景行天皇52年、景行天皇の皇后の播磨大郎姫(はりまおおいらひめ:日本武尊の実母でもある)が亡くなられた。
景行天皇は、日本武尊への想いがわすれられず、日本武尊のみた東方の国々の巡行に向ったのであります。『日本書紀』や『各地の風土記』・神社の社伝には、景行天皇のことが記載されております。
20.飛躍への時代
最後の章では、日本武尊(やまとたけるのみこと)の子孫や宮簀媛(みやずひめ)の兄弟・建稲種命(たけいなだねのみこと)の子孫についてのことが記載されております。
また、景行天皇の後継・第13代成務天皇についての記載があります。成務天皇は、在位期間が短く子供が早逝したことが記載されております。一部に成務天皇非実在説を唱える学者がいるが、景行天皇と日本武尊の路線と成果を継承し、全国の支配体制を強化しており、実在したことは間違いないと主張されております。
また、景行天皇の後継・第13代成務天皇についての記載があります。成務天皇は、在位期間が短く子供が早逝したことが記載されております。一部に成務天皇非実在説を唱える学者がいるが、景行天皇と日本武尊の路線と成果を継承し、全国の支配体制を強化しており、実在したことは間違いないと主張されております。
さらに、景行天皇や日本武尊についてまで『非実在説』が主流となているが、『古事記』や『日本書紀』をはじめとする各地域の伝承、考古学的な遺物を検討すると、実在したことは間違いないと断定されております。