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 8.解説『景行天皇と日本武尊』その3
●相模
 日本武尊一行は、三島に向った。三島は海陸交通の要衝(ようしょう)の地である。また伊豆は古代における一大造船基地であった。
 熱海に入ると来宮(きのみや)神社がある。ここには、大国主命や日本武尊が祀られている。次に、日本武尊が「泉の水」を飲んで脚気をいやしたと伝えられる命(みこと)之泉神社がる。
 相模(さがみ:神奈川県)に入ると足柄神社があり、ここで日本武尊は仮の宮を設けたいわれ、近くにある寒田神社は倭建命(やまとたけるのみこと)とその妃・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が祀られている。
来宮(きのみや)神社
命之泉神社
足柄神社
寒田神社
  埴輪よる当時の舟
 日本武尊は、神奈川県大和市深見の深見神社あたりに滞在して、船団を整えたようである。現在ではここは内陸部に位置するが、かっては海が深く侵入しており『深見入江』と呼ばれていた。
 日本武尊は、この深見入江から船団を出されたのである。
 ところが、この深見を船出した日本武尊は、海難に遭遇してしまったのであります。
●弟橘媛(おとたちばなひめ)の入水
 『古事記』は次のように記している。
 「そこからさらに軍旅を続けられて走水(はしりみず)の海をお渡りになった時に、その海峡をお治めるになる神が波を起こして、船を木の葉のように翻弄したので、お進みなることができなくなってしまわれた。
 その時に皇后の弟橘比売命は申し出られた。
 『私が、御子に代わり海の中に入ります。御子は、どうかご立派にお仕事を成し遂げて、御報告申し上げてくださいませ』。
 
 そのように申し上げて、海へ入る身支度をされた。菅畳(すがだたみ):すげの草を編んだ畳)を八重に、皮畳(かわだたみ:獣の皮で作った畳)を八重に、絁畳(きぬだたみ:あし絹で編んだ畳)を八重に、それぞれを重ねて波の上に敷かれて、その上に降り立つと、そのまま浪間に沈んでいかれた。
 そして荒波はいつしか静まり、日本武尊を乗せた御船は進むことができた」
 一方、『日本書紀』は、次のように記す。
 「そこから相模に進んで上総に行こうとした。海に望んで言挙げして『こんなちっぽけな海は、立って飛ぶだけで渡ってしまうだろう』と仰せられた」
 この海の潮流に習熟していた現地の船乗りたちは、潮流の速い今の時間は止めた方がいいと諌めたようである。それに対して、日本武尊はあえて「言挙げ」(ハッキリと口に出して)、出航を宣言したのである。
 しかし、いにしえの大和の国は、伝統的に言挙げをすることをよしとしない国柄であった。
 出航を決める重大な局面において、日本武尊があえて「言挙げ」したことを『日本書紀』が記したのは、日本武尊の行動を暗に非難した伝承を踏まえたのであろう。
『日本書紀』はつづけて記す。
 
 「ところが海の中ほどまできた時に、突然に暴風が吹いて、御船は木の葉のように漂って向こう岸へ渡ることができなくなってしまわれた。
 その時に御子に従う者の中に、弟橘媛という妃がおられた。穂積(ほづみ)氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘である。御子に申し上げた。
 『今まさに急に風が吹いて波の流れも速く、このままでは御船が沈んでしまうでしょう。これはすべて海神(わたつみ)のたたりと思われます。どうか、我が身を御子のお命に代えて海に入ることをお許し下さいませ』。
 このように申し上げると、浪間に分け入ってそのまま沈んでいかれた。すると暴風は静まり、船は無事に進んで向こう岸に着くことができた。それで世の中の人々は、その海を名づけて馳水(はしりみず)といった」
 日本武尊が「吾妻はや(我が妻よ)」と嘆いたことから「東国(あずまのくに)」という名が生じ、千葉県と神奈川県の双方に吾妻神社が祭られた。
15.房総から北進
 日本武尊は房総半島を北進し、上総(かずさ)の国(今の千葉県中部)から下総(しもうさ)の国(今の千葉県北部)に進んだ。
 各地には、日本武尊の話が伝承されている。例えば、日本武尊が日照りの害に苦しむ住民のため天照大神に祈ったら雨が降って来たとか、不作を嘆く村人に鏡を贈ったところ五穀豊穣の土地に生まれ変わったとか、そして各地の神社には日本武尊の言い伝えが残っているのであります。
 次に、常陸(ひたち)の国(現在の茨城県)へ行くのですが、その『常陸国風土記』では、日本武尊は倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)として記載されているのであります。
 常陸の国では、日本武尊は天皇と称えられ、その足跡と伝承が後世に伝えられているのあります。
16.陸奥の国々
 日本武尊は常陸から陸奥(むつ)の国に巡幸しております。陸奥の国とは、宮城県を含む東北地方であります。この陸奥(むつ)の国は、一体どこからどこまでかは、時代によっても違うますが、はっきりしておりません。
 日本武尊は北上川流域をさかのぼり、盛岡まで北上したようです。岩手県北部にある巻堀神社(盛岡市)は猿田彦命(さるたひこのかみ:天照大神に遣わされたニニギノミコトの道案内をした)と日本の国土を造ったイザナギノミコトを祭神としておりますが、日本武尊が所持していた半透明の陽根をご神体として祭ったそうです。
 巻堀神社の言い伝えでは、日本武尊は猿田彦命の末裔の娘をめとり男子をもうけたたそうです。
 また、日本武尊は白鳥を愛し、各地に白鳥伝説・白鳥信仰が分布しております。
17.帰還への道
 東北地方を平定した日本武尊はいよいよ帰還への旅をいたします。日本武尊は筑波山と常陸の国が好きだったとみえ、地上の楽園『常世(とこよ)の国』と褒めちぎって」おります。
 常陸の国を出た日本武尊は、武蔵国から甲斐へそして武蔵国の秩父方面に向ったのです。
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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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