2.草薙神社の説明
(清水歴史探訪より)
現在は、住宅地に囲まれている草薙神社ですが、かつてはかなりの広さがあったようです。
「草薙神社にお参りに来ますと、南幹線に大きな鳥居がありまして、それからかなり車で上がって来なければいけないんですけれども、この鳥居と神社が離れているのはどうしてなんでしょうか。」
「昔は、南幹線というのは、旧東海道といいまして、その近くに神社があったと言われています。
これは平安時代くらいまでは、その近くに神社があったんではないかと言われていますが、平安時代になりましてから、現在の地に移ってまいりました。そんな関係で距離が離れております。
現在ある鳥居は、昭和になってから作られたものでございまして、昔は参道が2つありました。これが草薙神社の現在の地まで続いておりまして、ちょうど神社のところで合流するという形になっておりました。
そこで、大名の方も下馬(げば)といいまして、馬から下りて、神社を参拝したといわれております。」
「そうしますと、今の参道とかつての参道は、違っていたんですか。」
「さようでございます。今の大きな鳥居がある道路は新道でございまして、昭和になってからつくられたと思います。
それまでは東大門と西大門という道路しかなくて、本当に大八車(だいはちぐるま)というリヤカー程度のものが通れるくらいの参道であったと思われます。」
「今はその参道というのは、どういう風になっているんでしょう。」
「現在も歩道となっておりまして、人が通ることができるようになっております。」
「2つの参道があったということで、やはり大きな神社であったから、ということもあるのでしょうか。」
「信仰が厚くあったものですから、例えば徳川家康様とか、あるいは豊臣秀吉様からも朱印状をいただくような形で、神社の領地を社領としていただいておりました。
鳥居から日本平までの間にかなり多くの土地を所有していたと、戦前までは言われています。」
「家康公は、駿府にいらっしゃったわけなんですけれども、実際にこの草薙神社に参拝においでになったことというのはあるんでしょうか。」
「書類で残っているとかそういったものはございませんが、ただ、神社の境内に燈籠(とうろう)が立っておりまして、この燈籠には葵の御紋が入っております。
これは私が直接勉強した事ではないんですけれども、徳川初代家康と2代将軍秀忠までしか、この葵の御紋を燈籠(とうろう)に御紋を入れてはいけない、というように専門の方に伺った記憶があります。」
「そうしますと、徳川家とは深い縁(えにし)があった、これは確かなことようですね。」
「社領としていただいていたもので、戦前までは広い社領を持っていたということでございますので、間違いないと思います。」
「さようでございます。今の大きな鳥居がある道路は新道でございまして、昭和になってからつくられたと思います。
それまでは東大門と西大門という道路しかなくて、本当に大八車(だいはちぐるま)というリヤカー程度のものが通れるくらいの参道であったと思われます。」
「今はその参道というのは、どういう風になっているんでしょう。」
「現在も歩道となっておりまして、人が通ることができるようになっております。」
「2つの参道があったということで、やはり大きな神社であったから、ということもあるのでしょうか。」
「信仰が厚くあったものですから、例えば徳川家康様とか、あるいは豊臣秀吉様からも朱印状をいただくような形で、神社の領地を社領としていただいておりました。
鳥居から日本平までの間にかなり多くの土地を所有していたと、戦前までは言われています。」
「家康公は、駿府にいらっしゃったわけなんですけれども、実際にこの草薙神社に参拝においでになったことというのはあるんでしょうか。」
「書類で残っているとかそういったものはございませんが、ただ、神社の境内に燈籠(とうろう)が立っておりまして、この燈籠には葵の御紋が入っております。
これは私が直接勉強した事ではないんですけれども、徳川初代家康と2代将軍秀忠までしか、この葵の御紋を燈籠(とうろう)に御紋を入れてはいけない、というように専門の方に伺った記憶があります。」
「そうしますと、徳川家とは深い縁(えにし)があった、これは確かなことようですね。」
「社領としていただいていたもので、戦前までは広い社領を持っていたということでございますので、間違いないと思います。」
草薙神社 神域内外の旧跡地
- 天皇原 景行天皇五十三年東国御巡幸の時、凰輦を駐め給ひし処、従来同帝をお祭りした社殿が明治四十三年に当社境内末社として祭る。
- 東護の森 日本武尊が伊勢大神を拝し東征の幸を祈り給ひし所、前天照大神の社殿があったが大正八年当神社に配祀される。
- 首塚の森 夷賊の首を埋めし所、傍に稲荷社があり保食神を祭る当社の境内摂社になっている。
- 御座松の森 日本武尊が松葉を敷いて御座とし御休息し給う所と云ふ。
- 御犬ヶ森 日本武尊が狩りをする時、犬を放ち給ふ所と云はれる。
- 柳ヶ沢 日本武尊が柳の枝を取り箸となし御食事された処と云はれる。
- 駒ヶ原 日本武尊が愛馬を放ちて草を食せ給ふ処と云はれる。
- 鞍下ヶ谷 日本武尊が野火に遭遇し、鞍より下り給いし処と云はれる。
- 御手水ヶ谷 日本武尊が御手を洗ひ給ひし処と云はれる。
- 日本平 日本武尊が夷賊を平らげし後、四方を眺められし処と云はれる、現在こゝに日本武尊の景仰碑が建立されている。
草薙神社参拝のしおりより
この周辺には、神話や伝承にちなんだ場所や地名もありました。
●伝説の内容と発祥地
①御犬ヶ森 字御犬ヶ谷
尊が狩りの時、犬を放った所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
尊が狩りの時、犬を放った所という。かつて犬の栖があったと社記に記されている。(神社の南方)
②手水ヶ谷 字手水ヶ谷 970
尊が狩りで汗をかいた折り、ここの清水で手を洗われた所という。
尊が狩りで汗をかいた折り、ここの清水で手を洗われた所という。
③鞍下ヶ谷(鞍卸ヶ谷)字鐙ヶ谷 986
尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
尊が野火の難に遭った時、鞍より下りた所という。
④御座の松
尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山を祀る。
尊が狩りの時、松を折り敷き、憩いをとった場所といわれ、松の下に小祠を建て、大山を祀る。
⑤柳ヶ沢
尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
尊が狩りをした時昼食に柳を折って箸とした所。草薙神社の祭事には必ず柳箸を使用している。
⑥首塚稲荷 字東山1124
尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(字迦之魂)を勧請した。昔はこの地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
尊が征伐した賊徒の首を埋めたと伝えられる場所である。後世、野狐の栖が多くなり、一社を建て稲荷の神(字迦之魂)を勧請した。昔はこの地から多量の人骨や古武器が出土したらしい。
⑦東護の森(社)字東護1154
尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。景行天皇40年の創建と伝えられる。
尊が賊徒を鎮圧した後、戦勝を報告し、さらに東方鎮定の祈願をするために、天照皇大神を祀った所という。景行天皇40年の創建と伝えられる。
⑧駒ヶ原 大字馬走字駒ヶ原
尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。
元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売渡された土地といわれる。
尊が駒を放ち、草を与えた所という。クマンバラという。
元は草薙に属したが、何時の時代か馬走に売渡された土地といわれる。
⑨天皇社 字天皇原61番地
景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
➉古宮 字天皇原56番地
草薙神社が最初に創建された所。古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。現在、小社が存在する。
景行天皇が日本武尊を偲び、この地に行幸した時、鳳輦を留めた場所と伝えられ、この地に天皇の神霊を遷した天皇社(明治末年草薙神社に合祀)を建て祀っていた。古地名ではこの一帯を天皇原と呼ぶ。
➉古宮 字天皇原56番地
草薙神社が最初に創建された所。古伝では、景行天皇53年、天皇が東国に巡幸の時、日本武尊を偲び社を建てたという。現在、小社が存在する。
有度ふるさと研究会 有度まちづくり推進委員会
「天皇原(てんのうばら)という地名が、この草薙神社とも縁(えん)があると伺っていますが、これはどういうものなんでしょうか。」
「日本武尊が遠くまで東国征伐征伐をする時に、この地で難に遭われました。
その後、景行天皇53年という年に、景行天皇が息子の日本武尊を追慕し、東国巡幸に出てこの地を訪れてました。その時に天皇陛下がお休みになった場所が『天皇原(てんのうばら)』と言われています。
現在は、『天皇原公園(てんのうばらこうえん)』という公園がありまして、そこが天皇陛下が休まれた場所なのではないかと言われています。」
「その頃は、そのあたりも境内の一部だったのでしょうか。」
「参道もあったし、ずっと神社の境内地であったとは思われますが、資料が残っておりませんので、はっきりしたことは申し上げられません。」
現在は、『天皇原公園(てんのうばらこうえん)』という公園がありまして、そこが天皇陛下が休まれた場所なのではないかと言われています。」
「その頃は、そのあたりも境内の一部だったのでしょうか。」
「参道もあったし、ずっと神社の境内地であったとは思われますが、資料が残っておりませんので、はっきりしたことは申し上げられません。」