1.草薙神社を訪ねて
草薙神社を訪ねる前に、昭和48年に発行された『ふるさと散歩~静岡県下百選~』の『20 草薙神社』を読んでみました。
草 薙 神 社
沿革を尋ねると、何時頃の創建か、文献の無いほど草薙神社の歴史は古い。式内延喜式神明帳に「駿河国有度郡三座云々草薙神社」と記載されているというから、少なくとも1000年以上の歴史を持つことになる。焼津神社、東久佐奈岐神社(清水市(区)庵原町山切区と杉山区の境に現存する)と共に、主神は日本武尊(やまとたけるのみこと)である。祭神の日本武尊は景行天皇の第2皇子で東国の蝦夷が叛乱したので、その鎮圧の途次このあたりで豪族の抵抗を受け、原野に火を放たれ、危機に瀕した時、剣を抜いて草を薙ぎ払って難を逃れたという伝説がある。
天慶3年(940)藤原秀郷(ひでさと)が平将門(たいらのまさかど)を討った時とか、天喜年間(1053頃)源義家(八幡太郎義家)が奥州を平げた時とか、共にこの神社に参拝したと伝えられ、その後も秀吉、家康も朱印地とした。現在は参拝者もあまり無いらしい。全体として、なんとなくうらぶれた印象を受けた。
境内の天然記念物の「大楠」は高さ6米、周囲20米というが樹芯は朽ちて大きな洞を為し(洞内で槍を使ったという話が残る)、わずかに外皮を残すのみとなり子供の遊び場になっている。境内のそこここに葵の紋入りの石灯籠の笠だけがころがっているのも物悲しい。文化財としての釣灯籠(天正7年10月奉納の銘がある)、鰐口(天正7年10月奉納の銘がある)は神官兼務の清水市(区)矢倉町の矢倉神社にあるとのこと。
尚、歴史研究家の談によれば、ヤマトタケルとは伝説上の人物で、ヤマト朝廷の国土統一のため戦った多くの勇士達を1人の固有勇士にしてヤマトタケルノミコトとしたらしいとのこと、尚ヤマト朝廷側から言えば地方豪族はエゾでありエビスであって、朝廷の命に従わぬから叛乱だ、といって討伐するが、一方地方豪族にしてみれば、長年自分たちが営々苦心して築きあげた土地を、いきなりよその地から来て、朝廷の命で召し上げるぞ、と言われれば腹も立つし、勝手なことを言うな、と抵抗することも当然有ったであろう。=これは現代に照し合わせてみてもわかることである。=こうした争いは日本各地にあったわけである。朝廷は、朝廷軍には、こんな強い武士が居るんだぞ、と地方豪族に誇示するためにヤマトタケルという豪勇無双の勇士をつくりあげたのだ、ということである。勿論この話は単なる想像ではなく、裏づける話もあるが、今は省略する。くさなぎ、という地名も各所にあるし、くさなぎのつるぎが、やまたのおろち、から出た話なぞもあるが又のことにしよう。
天慶3年(940)藤原秀郷(ひでさと)が平将門(たいらのまさかど)を討った時とか、天喜年間(1053頃)源義家(八幡太郎義家)が奥州を平げた時とか、共にこの神社に参拝したと伝えられ、その後も秀吉、家康も朱印地とした。現在は参拝者もあまり無いらしい。全体として、なんとなくうらぶれた印象を受けた。
境内の天然記念物の「大楠」は高さ6米、周囲20米というが樹芯は朽ちて大きな洞を為し(洞内で槍を使ったという話が残る)、わずかに外皮を残すのみとなり子供の遊び場になっている。境内のそこここに葵の紋入りの石灯籠の笠だけがころがっているのも物悲しい。文化財としての釣灯籠(天正7年10月奉納の銘がある)、鰐口(天正7年10月奉納の銘がある)は神官兼務の清水市(区)矢倉町の矢倉神社にあるとのこと。
尚、歴史研究家の談によれば、ヤマトタケルとは伝説上の人物で、ヤマト朝廷の国土統一のため戦った多くの勇士達を1人の固有勇士にしてヤマトタケルノミコトとしたらしいとのこと、尚ヤマト朝廷側から言えば地方豪族はエゾでありエビスであって、朝廷の命に従わぬから叛乱だ、といって討伐するが、一方地方豪族にしてみれば、長年自分たちが営々苦心して築きあげた土地を、いきなりよその地から来て、朝廷の命で召し上げるぞ、と言われれば腹も立つし、勝手なことを言うな、と抵抗することも当然有ったであろう。=これは現代に照し合わせてみてもわかることである。=こうした争いは日本各地にあったわけである。朝廷は、朝廷軍には、こんな強い武士が居るんだぞ、と地方豪族に誇示するためにヤマトタケルという豪勇無双の勇士をつくりあげたのだ、ということである。勿論この話は単なる想像ではなく、裏づける話もあるが、今は省略する。くさなぎ、という地名も各所にあるし、くさなぎのつるぎが、やまたのおろち、から出た話なぞもあるが又のことにしよう。
田中雨石著『ふるさと散歩』の32ページより
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
JRと静鉄の草薙駅近く、南幹線に建つ大きな鳥居をくぐって、ゆるやかな坂道を上ってゆくと、住宅地の向こうにこんもりとした緑に囲まれた、神話の舞台としても知られる、草薙神社が見えてきます。
宮司の、森 明彦さんを訪ねました。
草薙神社 御由緒
当社は式内延喜式神名帳に「駿河国有渡郡三座小並云々草薙神社」と記載されている。御祭神は、景行天皇第二皇子日本武尊を御祀り申し上げて鎮座してあります。
国史社伝によれば尊は東国の蝦夷が叛いたので、之を平定する為吾嬬国(あずまのくに)に赴く途中、このあたりで逆賊起り原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折り、伊勢神宮に参拝し倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓いて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により火をつけた。
その火は逆賊の方へ姻りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。
その後、佩用されていた天叢雲(あめのむらくも)の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした時に尊が草を払われた処を草薙と言われる様になりと語り伝えられている。
その後景行天皇が日本武尊の勲功の地を尋ねようと、五十三年八月に天皇は郡郷に詔(みことのり)して曰く「冀くば、日本武尊の征定された国郡を巡視する」そこで天皇は直ちに出発せられ先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向われ九月二十日に当地に御着になり尊の奮斗の跡を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。
景行天皇五十三年九月二十日(平成十九年より1884年前)依って当月当日(九月二十日)を以って例祭日と定めて今日に及んでおります。
その後草薙の剣は第四十代天武天皇の朱鳥元年(686年)に勅命により現在の熱田神宮に奉祀されました。
※「草薙神社参拝のしおり」より
「どういう由来があるんでしょうか。」
「そうですね、景行(けいこう)天皇53年といいますので、西暦にしますと123年に、この地に鎮座したといわれております。
草薙神社 沿革
当社は何時頃の草創か、之に関する文献はないが類聚国史清和天皇貞観元年正月二十六日に駿河国有渡郡草薙神社に従ニ位を授けられ、正拾四町の位田を下賜されました。
又歴代東夷御討征の折は必ず奉幣され尊の御冥護を祈られました。この外、朱雀天皇天慶年中には、藤原秀郷が平将門御征伐の為の奉賛がありました。
又歴代東夷御討征の折は必ず奉幣され尊の御冥護を祈られました。この外、朱雀天皇天慶年中には、藤原秀郷が平将門御征伐の為の奉賛がありました。
その御今川、豊臣、徳川の諸公には社領を奉納され、尚今川範国公には建武年中に御社殿を再建されました近くは天正十七年徳川家康公の御社殿造営、続いて修理等が行なはれ、明治元年十月勅使植松少将、神祇官帯同にて御官幣を奉納されました如く、昔より皇室を始め武将名士の崇敬が厚く御神徳の高かったことを知ることが出来ます。
明治六年三月に郷社に同十二年七月に県社に昇格され明治、大正、昭和と尊の御神徳をしたって御国の為に数多くの崇敬者が神前にぬかずき武運長久を祈念した。
昭和三十五年十月に六級社に昭和四十二年四月、五級社に、昭和五十六年七月に四級社になり現在に至っております。
境内の大楠は天然記念物に指定され、高さ六米、周囲二十五米、但し樹心は朽ち、わずかに外皮を残すのみと雖も尚、枝葉は繁り境内の老杉桧と共に人心を静め四季爽快である。例祭日には氏子一同各部落より奉賛し、保存団体草薙神社龍勢(流星)保存会による名物龍勢(流星)煙火の打上げを奉納し初秋の夜空を空高く吊星の極彩色で彩りその技を競ふことを例とします。
そして、この『草薙の剣』を御神体して祀るようにと云われたのが、123年という年になるということでございます。」
「剣(つるぎ)というのは、残っているのでしょうか。」
「40代天皇・天武天皇の勅命によりまして、今は愛知県にあります、熱田神宮の御神体として祀られております。」
熱田神宮(あつたじんぐう)
名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。
三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。なおこの剣は、鎮座の後も、盗難に遭ったり(「草薙剣盗難事件」を参照)、(形代が壇ノ浦の戦いで遺失するなどの受難にみまわれている。(「天叢雲剣」を参照)。
また、景行天皇43年創建と伝えられており、同年は西暦に換算した場合に113年とされることから、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えるとされ、同年5月8日に「創祀千九百年大祭」が行われた。
また、景行天皇43年創建と伝えられており、同年は西暦に換算した場合に113年とされることから、2013年(平成25年)に創祀1900年を迎えるとされ、同年5月8日に「創祀千九百年大祭」が行われた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「剣、刀の形をしているんですか。」
「御神体(ごしんたい)でございますので、見ることはできません。
よく神社にも『草薙の剣があるのであれば見せていただきたい』ということがあるんですけれども、御神体というのは見るということがございませんので、実際、どんな形をしているのかということは、私も熱田神宮の方も分からないと思います。」
「例えば、神社の宮司さんですら、それは見てはならないものなんですか?」
「そうですね、御神体というのは見てはいけないものでございます。」