清水の七夕まつりは、現在、清水駅前銀座と清水銀座が会場になっていますが、かつては多くの商店街が参加して、大規模に行われていた時代がありました。
「かつて、昭和30~50年代、七夕まつりは清水市全市の商店街、当時11ヶ所あったんですが、11ヶ所で全部やっていたんです。時代の趨勢で商店の数も減ったものですから、清水銀座商店街と駅前の2ヶ所だけになっています。
私の記憶で言いますと、市外・県外から泊まりがけで見に来た方も結構いらっしゃいましたね。山梨県とか、当時清水のみかんがすごく大隆盛の時代で、みかんの収穫シーズンには、遠くから多くの『移動班』って言っていましたけれども、季節労働で見えていたんです。
そして、その人たちが『じゃあ、また夏には来るわね』。今度は家族連れで七夕に来て下さいまして、『半年ぶりに清水に来て懐かしい』って。当時は、県外からの方々とのコミュニケーションがあったんですね。
最近、どうも山梨・長野からの見物客が少し減ってきたなあ、という風に実感しています。
したがって、これからは、長野・山梨の皆さんに清水の七夕まつりをどうアピールしていくか、そして清水へ足を運んでいただけるか。
それが『君は太平洋を見たか、僕は日本海を見たい』、中部横断自動車道のきっかけですから、ぜひ清水へ来ていただけたらと思っています。」
花井さんにとっても、七夕には思い出がつまっているようです。
「いやもう、七夕は思い出のかたまりで、母が夜なべをしてつくっていた。僕が子供ながらも一生懸命形の悪い花を折っていた。そういう中で親と子のコミュニケーション、それから七夕の作品作りを通して、知らず知らずのうちに情操教育になっていたのかな、商店街の子供たちみんな同じだし。
しかも、七夕飾りづくりは、素材を仕入れる材料屋さん、文具屋さん、看板屋さん、それから、七夕を作るための竹を納めている企業。それもすべて地域の活性化になっていくわけですね。
いわゆる経済の還流というか、波及効果というか。清水の活性化のために頑張ってきた証ではないのかな。
七夕の隆盛は清水の隆盛だし、七夕の衰退は清水の衰退につながるんだから、もう一度、『七夕』というキーワードを利用して、始めに言いましたように、静岡市の地域資源、市長がよくおっしゃる『磨く』、七夕を一生懸命磨いていくともっと光を増して、もっと魅力的なものになるんじゃないのかしら。
それは私、七夕はこれは静岡市、県、特に県の中ではもう、かつては富士宮も島田も浜松も焼津も、七夕まつり、今でも焼津はやっていますけれども、沼津も、ほとんどの市で七夕まつりが競演していた時代があったんです。
その中で、清水はどうにかまだまだ光は落ちたといえ、多少輝いているものですから、これをもう一度磨き直してみたいな、と。
みんなで磨いたら、きっと光り輝く宝石になるかもしれない、と。だから今、宝石への途中ですけど、あとは市民の皆さんがみんなで磨いて下さることが、光を増すことになって、静岡市の宝になってくんじゃないのかな、そんな感じを持っています。