(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
今年はちょうど今、7月7日~10日まで、清水駅前商店街と清水銀座商店街を会場に開催されている、清水七夕まつり。
今年で64回目を数え、すっかり清水の風物詩となったこの祭りについて、清水駅前銀座商店街 振興組合前理事長で、地域活性化戦略研究所 所長の花井孝(はない・たかし)さんに伺いました。
「まず、この七夕まつりなんですが、最初はいつごろから始まったものなんですか。」
「まだ戦後間もない昭和28年、清水に、より多くの人に来ていただくように始まったと聞いております。」
「当時の清水の市街っていうのは、どんな様子だったんですか。」
「やっぱり太平洋戦争で、清水のちょうど市街地が艦砲射撃と爆撃を受けて、当時はあっちこっちに焼け跡というか、戦争の余韻を感じる風景が残っていたようなんですよ。
その中で、商店街の先輩たちが、『よし!これから日本の復興の時代だぞ』と。『その景気づけのために、商店街に賑わいをと、七夕を始めてみようじゃないか』とお考えになったようなんですよ。」
三百万円の飾り付け 東海一の清水七夕まつり
【清水発】これまで行われていた清水市の七夕まつりを、本年から大規模に飾り立て八月の港まつりとともに東海の名物にしようと同市商店街連盟が手ぐすね引いていたところ連日の雨にたたられ空を見上げて溜息するばかり、八日は久しぶりに雨が上り待っていましたとばかり各商店街は準備していた大掛りな七夕を一度にドッと飾りつけ、市内繁華街を七色に彩り引続け十日まで実施する。
写真は、清水銀座七夕まつり風景(静岡新聞 昭和28年7月9日)
飾りつけのコンクールは、八日の昼夜にわたって市長を始め市議長、会議所会頭、観光協会長らが審査の上、九日午前十時から市商工会議所で個人、団体それぞれ五等まで、賞状、賞金、賞杯などがおくられることになっている。
なお市内相生町の某映画館ではこのまつりに呼応して八日から十日まで映画館前の四本の竹に市内および袖師町の商店廿軒から集った百点に上る商品をぶら下げ、十日には道行く人により取り見取りどんな手段を使ってもこの商品をとった方にはただでさし上げますとお盆映画にからめての広告戦に乗り出した、これらの商品はハンドバッグ、シャツ類、菓子、玩具、万年筆、化粧品セットなどからみそ、醤油の類まである。
「このころというのは、清水でも色んなお祭りですとか、町おこしみたいなことが行われていたようですね。」
「ええ、七夕に先立つこと昭和24年に、第1回清水港祭(みなとまつり)ができたと。そして、そのみなとまつりに刺激されて、『じゃあ、商店街でも賑やかにしようよ』と、その賑やかにするための手段が七夕だったんですよね。
当時の記録を見ますと、先輩たちは、その先進地である仙台や神奈川県の平塚へ何度も足運んで、七夕の飾りづくりだとか、飾り方だとか、運営の仕方だとか学ばせていただいたようですね。」
「当時は商店街、規模としてはどのぐらいだったんですか。」
「当時の記録を見ますと、清水銀座商店街、これが伝統的な商店街で、新しい商店街、清水駅前銀座商店街、現在『アーケード街』という名前もついておりますけども、そこはまだまだ『闇市商店街』と通称言われていたそうなんです。
戦後、大陸から引き揚げた人たちや、就職先のない人たちが自発的に、自然発生的に集まった商店街で、露天商なんかも含めた闇市と言われていましたね。」
写真は、闇市の後にできた港マーケットの解体
「まだまだ、こう戦争の傷跡の明確に残っている時代だったんですね。」
「記録や、当時を知るお年寄りから聞きますと、『商店街から江尻波止場が見えたよ』という人もいるし、それから『蒸気機関車が東海道線を走っていて、その車窓には出征兵士のたすき掛けの青年たちも沢山乗っていたのが見えたよ』と。
昭和28年というのは、戦争も終わって、ちょうど朝鮮動乱というので、朝鮮戦争の特需景気で商店街が爆発的に賑わった時代があったらしいんです。それと、ちょうど七夕が始まったのと同じ期間ですね。
私はその七夕初代とは違うんですが、七夕2代目ぐらいになるんですが、仙台へ時々(行って)、『ああ、仙台の七夕と清水の七夕はこんなに違うのか』と。
仙台は伝統的な和紙の素材を大切にして、伝統的な七夕飾り。規模が大きくて、仙台も駅前銀座と同じアーケード街なんですが、アーケードもワンランク上というんですか、質の高いアーケード街で、商店も専門店・老舗という名前にふさわしい、間口が広くて奥行きの深い、売り場面積も大きい、いわゆる大店(おおだな)、そんな店がひしめいていましたね。」