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5.明治に入ってからの清水港

(清水歴史探訪より)

「さて、だんだん時代が近づいてきますけれども、どんな変化になってくるんでしょう。」

「はい。こちらは、明治に入りましてからの清水の港を紹介しております。

 江戸時代までの清水の港と言いますのは、巴川をやや遡った西側ですね、川湊だったんですけれども、明治時代になりまして、船も大きくなり、汽船も清水の港に入ってくるようになりますと、船が遡ることができないということで、外海に面したところに、港を造るようになりました。

 

 こちらがですね、現在、『浪漫館』という大きな建物が港湾道路に面してありますけども、その東側ですね、水上警察署という派出所がありますけども、その前に波止場という船溜まりが最初に造られました。これが近代的な清水港の始まりになります。

 フェルケール博物館というのは、その波止場のすぐ近くに造られております。」

 

「ここはどうやって造成されたんですか。」

 

「はい、こちらは、第15代の徳川将軍の家臣の中に白井音次郎さんという方がおりまして、その白井さんが現在の波止場の周辺の土地を持っておりました。

 

 その中で一番のいい場所ですね、中心部分を、地元の人たちのお願いがありまして、波止場用地として提供していただいた、ということです。」

謎の人物白井音次郎 

 

 明治七年に白井音次郎が払下げを静岡県に要請し、翌八年四月に許可されたという向島の土地というのは、巴川河口の当時は人家もない砂原であった。しかし十町三反(約31千坪)の土地払下げ価格が60833厘というのは、目を疑うほどの低い価格である。 

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 清水市史や図書館所蔵の古い地図には、向島の白井音次郎が払下げを受けた土地の絵図面があった。それを今日の地図と重ね合わせると、清水港の心臓部や市役所の周辺がすっぽり入る、清水市の中心に当る土地だ。

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 鈴木与平らを総代とする波止場・博運会社は、繁船場を造るに当って、どうしても白井音次郎の土地を使わなければならなかった。向島の外海に面する土地の殆どが、白井音次郎個人の所有となっていたのだ。

 しかし白井音次郎は新しい港づくりに協力的であった。所有地のうち、繁船場に必要な場所五千四百坪の提供を承諾した。その代わり、波止場・博運会社は、その株式一株半を提供するという「交換盟約」である。

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 白井音次郎は徳川慶喜の家来で、「二等下家従・中奥書記役」という身分であることがわかった。

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 江戸から駿府まで官軍陣営を強行突破した山岡の背後には、白井音次郎の工作が見え隠れしている。白井音次郎は慶喜のお庭番、すなわち隠密だったらしい。

清水次郎長と明治維新(田口英爾著)より

「今は、その場所よりもずいぶん海側の方にも波止場が伸びてきていますが、ここは埋め立てられてできたんですか。」

「そうですね。150年をかけて、だんだんだんだん埋め立てをしまして、港の機能というのは拡充をしております。

 今はもう、清水の湾全体が港になってきておりますので、この最初に波止場になった部分から、だんだん外に、外に、と港が広がっていったということです。」

港を築く

清水港平面図/大正10年(1921)~昭和13年(1938

 清水港の第一次、第二字改修工事ともに明治初期の波止場を中心に整備されていった。現在のエスパルスドリームプラザとその北側の島崎地域、続いて日の出、富士見埠頭や対岸の貝島地域が開発されていった。

「大きなガラスのケースの中に船がありますけれども。」

「はい、これが明治13年に建造されたと言われている、大宝丸(たいほうまる)ですか、船になりますね。」

「はい。この船でどこまで行ったんでしょう。」

「その当時になりますと、もう静岡のお茶が横浜を経由しまして、海外に輸出されておりますので、恐らくは清水と横浜を結んで、お茶、それからその他の物資を運んでいたという風になると思います。」

「当時としては、これはもう最新鋭なんですか。」

「そうですね、最新鋭の船になります。帆の形であるとか、張り方も、洋式の帆船になっております。」 

 近代的な清水港の始まりだった、波止場の船溜まり。現在も、警備艇の係留場所や水上バスの乗り場として機能しています。その後、清水港は急速に近代化が進められてゆきます。

第一次修築事業

明治41年~大正3年(19081914

 明治39年(1906)に清水港から輸出が始まると、静岡県と内務省港湾調査会の検討により清水港は各県に一つの第二種重要港湾に指定された。第一次修築工事は海底を掘って深くし、この土で江尻沿いの192,000㎡余を埋め立てて工場誘致を行った。また、現在のドリームプラザ東側新船留を整備した。

第二次修築事業

大正10年~昭和13年(19211938

 当時は沖積みといって、木造の艀に荷物を積み、沖に停泊する本線に積み替えていたが、港湾の発展とともに大型船が横付けできる岸壁が必要となった。また、荷物を保管する上屋や工業地帯設置のための埋め立てとトラック輸送を見越した道路網の整備などが行なわれた。

「さて、だいぶ近代に近づいてきました。鉄道などの写真もありますね。」

「そうですね。清水の港といいますのは、明治の後半くらいから、第1次修築事業、第2次修築事業という風に呼んでいるんですけれども、大規模な近代化が図られております。

 こちら、今言いました波止場の周辺を工業地帯にするための第1次修築事業ですね。

 それから、こちら右側ですね、日の出埠頭を中心に港の機能を拡充をしていく、第2次修築事業ですね、そちらを紹介しています。」

神奈川丸

 日本郵船株式会社の神奈川丸は明治39年(1906)に清水港から初めて輸出を行った。日本茶は、明治44年(1911)には清水港の輸出量の99%を占めた。

国鉄清水港線(設置時は臨港線)

 清水駅と清水港を結ぶ線路で大正5年(1916)に設置された。三保半島の先端付近まで延びていた。

「船の写真が解説されていますが、どういう船なんでしょう。」

「静岡で『神奈川丸』というとピンとこないですけれど、清水の港から初めて直接アメリカに向けて輸出した船になります。記念して紹介をしていますけれども、名前が『神奈川丸』だったので分かりにくいですけれども第一号ですね、輸出の。」

「さぁ、そして鉄道がいろいろ引かれてきて、鉄道岸壁というとピンとくるようなんですが、かなり鉄道があったようですね。」

「そうですね。大正5年からですね、今で言うとJRの清水駅からですね、三保の先端に向けて臨港線が造られておりました。清水の港というのは、港であるとともに、工業地帯でもありましたので、物資を運ぶために臨港線が設置されていました。」

「この線は、のちの清水港線になるわけなんですが、いっときは日本一の黒字だったそうですね。」

「そうですね、工場地帯、かなりたくさん工場がありましたので、収益もかなり上がっていたようですね。」

 江戸時代から、さまざまな物流の拠点として発展してきた、清水港。フェルケール博物館には、その港で働いていた人たちにまつわるものも保存・展示されています。第2展示室からの資料は、次回のこの時間にご紹介しましょう。

 

 

 お話は、フェルケール博物館 学芸部長の椿原靖弘さんでした。

 

 

清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~

 

お相手は、石井秀幸でした。

この番組は、JR清水駅近くさつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。

変貌する清水湊・清水港
変貌する清水湊
(清水湊・駿河土産 『西尾市教育委員会』蔵)
変貌する清水港
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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