(清水歴史探訪より)
川港(かわみなと)として栄えた、当時の清水港(しみずみなと)。廻船問屋が集まり、蔵が立ち並び、繁栄を謳歌していたようです。当時の繁栄の様子を物語る資料も伝えられています。
「大きな包みのようなものがあるんですが。」
「はい、こちらはパッと見ると包みのようなんですけど、よく見ますと、帳面が10、20ぐらいかな、ひもで綴って大きく束にしてあるのが分かると思います。
皆さん、『大福帳』という言葉は聞いたことあると思いますけれども、これが、本物になります。
当時はですね、帳面と言いますか、今でいう出納簿ですね。それを綴って大きな束にしまして、これを店のところに、みんなに見えるように置いておくんですね。そうすると、お客様がそれを見て、『このお店は、こんなに儲かっているんだ、繁盛しているんだ』、ということを見て安心しますので、見るために、こういう風に大きく束にして綴っております。
『大福帳』というのは、『大きい福の帳面』と書きまして、縁起を担いでいるんですね。」
「この店先に大福帳がたくさん並んでいるというのは、そのお店の信用のバロメーターにもなるわけですね。」
「そういうことですね。」
「お椀など、これは、当時使われていたものなんでしょうか。」
「そうですね。こちら今、5客お椀を出しているんですけども、10客がセットになって、1つの組になるんですけれども、これ、当時、廻船問屋で使っていたお椀ですね。
かなり、金の蒔絵が施してありまして、豪華なものなんですけども、廻船問屋といいますと、皆さん、荷物を売り買いをするところだというのはご存じかと思うんですけども、もう一つ重要な役割がありまして、高級ホテルとしての役割も持っていました。
こちらはですね、船の持ち主ですね、船主さんが船荷を売買するときに値段が決まりまして、商売が成立するまでの間は、廻船問屋さんに寝泊りをずっとしています。その時に使われたお椀がこちらになります。ですので、豪華なお椀になっております。」
「御接待用なわけですね。」
「そうですね、はい。」
「ちなみに、当時どんなものが取引されていたんでしょう。」
「はい。こちらも古文書から出してきたんですけども、輸出というのが清水港から出て行くものですね。主なものとしては、今も変わらず、お茶が目立っております。
それから、面白いものでは炭とか薪とかエネルギー関係の物を、やっぱりたくさん出していたということですね。
それから、こちら、清水の港に持って来られたものですね。こちら、目立つものは穀物とありますけれども、お米類、当時の年貢米ですね、こういったものが清水の港に一時水揚げされておりました。
それから、お塩、たばこ、樽荷類(たるにるい)というものがありますが、梅干しであるとか、そういうものですね。そういったものも、多くが清水の港に運ばれてきておりました。」
「年貢米が集まってきていたということは、保全倉庫みたいな意味合いもあったんでしょうか。」
「そうですね。清水に大きな蔵というのは、2箇所ありました。
1つは、『甲州廻米(かいまい)置き場』と呼ばれている部分になるんですけれども、博物館からすぐ近くの巴川沿いに跡地が残っているんですけども、甲斐の国・今の山梨県ですね、それから信濃の国、今の長野県の年貢米が富士川をずーっと下ろされまして、清水の湊まで運ばれてきておりました。
それから、今の巴川の河口部分のあたりに、清水小学校がございますけれども、その清水小学校が徳川幕府の米蔵の跡地になります。こちらは、幕府関係のやっぱりお米もそこに蓄えられていました。」