(清水歴史探訪より)
椿原さんとともに、清水湊の誕生の頃から、資料を辿ってゆきましょう。
「はい、こちら第1展示室になります。清水の湊を、江戸時代の初めからどういう風に発展をしてきたか、歴史があるかというのを紹介しております。」
「この清水が湊として機能し始めたのは、やはり江戸時代ぐらいなんですか。」
「そうですね。もともとは、巴川という、清水の港に流れ込んでいる川があるんですけども、そこの河口部分が湊として最初に使われていたようです。
江戸時代の初めの河口というのですね、今で言いますと、もうちょっと上流に遡っていきます。
ちょうど清水区役所がございますけども、その清水区役所のあたりで地図を見ていただきますと、巴川がカクンと曲がっております。
その曲がったあたり、今の区役所あたりが恐らくは、江戸時代初めの河口部分で江尻湊(えじりみなと)という風に言われていた部分にあたると思います。」
「今とだいぶ地形そのものが違うんですね。」
「そうですね、だいぶ変わってきておりますね。今、博物館がございます場所ですね、ちょっと半島状に、鼻のように伸びているんですけれども、その部分がですね、昔は向島(むこうじま)という風に呼ばれておりまして、海に突き出したような部分になっておりました。
江戸時代の中くらい、それから江戸時代の後半にかけて堆積でできてきた部分になりますので、この部分は、もともと江戸時代の初めにはなかったという風に考えていただければいいと思います。
フェルケール博物館のある場所というのは、江戸時代の後半にならないと、出てきません。」
「どんな変遷を辿っていったんでしょう。」
「はい、こちらですね、今江戸時代の後半の絵図がちょっとあるんですけども、これ見ていただくと、どうですか、今の地図とだいぶ雰囲気が違うと思うんですけども。」
「はい。駿河湾の形自体が、なんだか違いますね。」
「そうですね。こちら見ていただくと、地図の中に折れ線が入っているのが分かりますでしょうか。」
「はい。たたまれた跡ですか。」
「そうですね。これは、当時の海にいる人たちが、たたんで持っていた地図になります。当時の人たちがどういう風に海とか陸地を考えていたか、というのがよく分かるんですけども、海岸線といいますか、今の太平洋に面していた部分が、一直線に近く描かれていますね。かなり、当時の人たちというのは、航路、それを中心に考えておりましたので、あまり陸地の凸凹というのは気にしていなかったというか、頭の中になかったようですね。」
「なんだか、清水のところが、まるで御前崎のような感じに描かれていますね(笑い)。」
「そうですね(笑い)。それと、意外と下田の部分が小さいのと、それと、大きなここ、見て下さい。気づきますか。」
「大坂の近くの堺ですか」
「堺のすぐ左なんですが、漢字が逆さまに書いてあります。」
「あっ、逆さまですね。」
「逆さまですよね。今我々は、地図というのは、もう小学校の時から、北を上に見るということで、教育を受けていましたけども、江戸時代の人というのは、そういう教育はまだ受けておりませんので、自分が海に向かって立った時に海は自分に対して向こうにある、ということで、ちょうど今と反対ですね。海を上に描くというのが通常の感覚だったんです。」
「東西南北よりも、海と陸がどちら側にあるか。」
「そうですね。それが重要だったということで、ちょうど地図と言いますか、絵図の感覚は、今の人と全く逆になります。」
「例えば、これが日本海側に行ったら、全く逆さまなんですね。」
「ですから、日本海側に行くと、今と同じ感覚になるということですね。」
「はい。伊豆半島の西伊豆の部分、細かく描かれていますね。」
「そうですね。『風待ち港』と言いまして、当時はエンジンがついておりませんので、櫓で漕いだりとか、それから帆で風を受けて移動していくんですけども、その風がないときには、港に停泊をして風が吹くのを待つような状況になるんですけども、その風待ち港が伊豆の西海岸には多かった、ということになりますね。」
「ちょうど今のフェリーの航路のようなところにも、線が引かれていますね。」
「そうですね。ちょうど清水から駿河湾を渡って、南伊豆に届くような航路もあったようですね。」
「陸の形が今と違って描かれているということでしたけれども、船で航海するときには、これで支障はなかったわけですか。」
「そうですね。今ですと、ここにもありますように、鳥羽から下田を経由して、東京、当時の江戸に入るという、最短の航路を使うように、感覚的には思うんですけれども、非常に、この航路というのは波の影響、それから風の影響を受けやすくて、遭難しやすい航路だったわけですね。
皆さんも映画とかでも見たことあるかもしれないんですが、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は伊勢の白子(しろこ)から船出をしまして、清水もしくは伊豆に行く予定だったんですけども、流されてロシアまで行ってしまいましたので、そういう危険を冒さないために、陸つたいにチョコチョコチョコと港を経由して東に移動していく、という航路が多くは使われておりました。
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は伊勢の国、今の三重県鈴鹿市の生まれで、江戸に向かう途中、暴風のために遭難し、アリューシャン列島でロシア人に救助されました。ロシアでおよそ10年を過ごしたあと帰国し、将軍に拝謁(はいえつ)して、ロシア事情などを伝えたとされています。この物語は、のちに、井上靖が「おろしや国(こく)粋夢譚(すいむたん)」として小説にまとめ、92年に映画化もされています。
大 黒 屋 光 太 夫
1.漂 流
天明2年(1783)年12月9日、光太夫以下18人の乗組員を乗せた神昌丸は白子港を出航した。遠州灘にさしかかった頃、暴風雨にあい遭難、神昌丸は北に向けて漂流した。神昌丸はアレウト(アリューシャン)列島のアムチトカ島に漂着。
2.シベリア横断
乗組員18人のうち、残っているのは光太夫、小市、九衛門、庄蔵、新蔵、磯吉光の6人となった。ロシア語を理解するようになっていた光太夫らは帰国にはシベリアの都・イルクーツクの総督の許可がいることを知った。マイナス50度以下の極寒のシベリアを渡り、翌1789年2月、ようやくイルクーツクに到着した。
3.ペテルブルグへ
光太夫は、ロシアの首都・ペテルブルグ(サンクトペテルブルグ)にいる女帝に直接願い出る決心をした。寛政2(1791)年1月、ラクスマンと共に光太夫はひとり、馬そりで約6200km離れたペテルブルグまで極寒のシベリアを昼夜なく横断、約30日で到着した。女帝からこれまでの漂流のいきさつやロシアでの生活について聞かれ、ロシア語で答えた。
4.帰 国
光太夫と小市、磯吉の3人は、帰国の途についた。ようやく蝦夷地の根室に到着したのが寛政4年(1792)年10月で、伊勢白子を出てからちょうど10年の歳月が流れていた。
5.幽閉生活
鎖国の中で、外国に行った者は理由の如何に問わず罪人とされ、二人は江戸に護送された。光太夫と磯吉は番町の薬草園内の屋敷に幽閉生活を強いられることとなった。しかし、外からの出入りは比較的自由で、種々の漂流記が書かれ、流布された。寛政10年(1798)年に磯吉が、享和2年(1802)に光太夫がそれぞれ伊勢若松に帰郷が許可された。
大黒屋光太夫記念館へどうぞ・・・・鈴鹿市若松中1-1-8(若松小学校の東です)
問い合わせ先; 0593-85-3797 大黒屋光太夫記念館