それにしても日露戦争の終結以後、日本民族の満州の地へ向けた怨念執着は異常とも言える。父祖が流した血を、何としてでもあがなわずにはおれなかったのであろう。当時の日本人が、大連、旅順から奉天へ至る満鉄路線の、どの一駅を耳にしても血が騒いだというのは誇張ではあるまい。故郷の地名以上の愛着をおぼえたようである。十五年戦争侵略の根底に、日本人のこの異常な‘満州執着’の感情も見落としてはならない。
西田税( にしだ-みつぎ)
明治34年10月3日生まれ。大川周明の行地社にはいったが,大川と対立して北一輝(いっき)の門下となり,国家改造運動に参加。昭和2年士林荘を設立して天剣党規約などを配布。五・一五事件で血盟団員に狙撃され負傷。11年二・二六事件に連座,12年8月19日処刑された。37歳。鳥取県出身。陸軍士官学校卒。
永田鉄山は、あまりにも優秀で、かつ人望もあったため、お決まりの陸軍の内部闘争の旗頭にされてしまいます。
当時の陸軍は、天皇親政を強化し武力による国民の支配も辞さない「皇道派」と、軍内の規律統制を重視する「統制派」に分かれて勢力争いをしていました。 どちらかというと「皇道派」は現場のたたき上げの軍人が多く、「統制派」は永田などのエリート軍人が多かったようです。
ところが1935年7月に「皇道派」の重鎮・真崎甚三郎教育総監が更迭されると、永田は翌8月に、「皇道派」の相沢三郎中佐に日本刀で斬殺されてしまいます。真崎更迭を裏で画策したのが「統制派」の中心の永田だと思われたようです。
死亡時の役職は陸軍軍務局長で陸軍中将でした。陸軍の方針決定の中心人物だったことは間違いありません。
その後、「皇道派」の暴走は続き、翌1936年に二・二六事件が起こります。
永田亡きあとの「統制派」は東条英機が引き継ぎ、戦争にまっしぐらとなっていくのです。永田と東条の違いは、一にも二にも能力と人望の差でした。
東条一人に戦争開始の責任があったと言うつもりは全くないのですが、陸軍大臣として、また後の首相としての世界情勢を読む能力、日本をまとめ上げる能力は永田と雲泥の差であったと言わざるを得ません。少なくとも永田が生きていたら、もう少し戦争のやり方が変わっていたのではないかと思われます。
闇株新聞より