保 蟹 寺 由 緒 ( 原 文 )
保蟹寺由緒
大内村 字寺の前にあり。当寺は安倍郡桂山村長光寺末にして、曹洞宗なり。境内広く889坪ありて、なお境外反別1町4反5畝25歩半を有せり。本堂大にして(間口9間半・奥行6間半)。その中に、本尊蟹薬師如来を安置せらる。その由緒左の如し。
当寺開基は人皇52代桓武天皇5世の孫 平親王将門の後裔 設楽四郎左衛門なり。初め永禄年中三河国設楽郡設楽村より、本国庵原郡大内村へ来たりて居住す。後慶長12丁未年に至り四郎左衛門、わが地内なる字富東と言う所に1つの庵室を造営し知識を請し、以て村民教化の道場を開かんと欲し、既に土工を起こさんとするの際、折節遠江国より関山派の僧介翁長老来たりて、四郎左衛門と共に尽力して、同年4月1宇を建立す。是に於いて介翁長老四郎左衛門の請に応じ直ちに入院す。これを創立開祖とす。
時に本尊未だ定まらず。この時村民の言えらく『村内北街道の側に蟹薬師あり、これは行基菩薩の正作にして、普く世間に利益を施し恭敬信仰するもの少なからず、然りといえども道路辺鄙にして、只農民のみ終日糞桶を担い、或いはその臭気の甚だしきより、遂に、その尊像の威を汚さんことを恐る。故に以前さらに位置を改め、村の東北隅字富東と言う所の山上に移して信仰すること今に然り。又是の山たる今は四郎左衛門の所有地なり。然れば今これを該寺の本尊と称し供養せば、村内安全の基たらん』と是に於いて四郎左衛門、介翁長老に請い右薬師如来を安置して、本尊と称し、改めて保蟹寺と号す。この因縁を以て旧安置したる所の字を薬師堂、又薬師平と称す。後、元和3巳年10月17日、四郎左衛門75才にして卒す。法名保蟹寺殿茂林祐繁居士と称す。介翁長老遷化の後、祖鯨長老。宗的長老相次いで入院す。この2代の中久しく衰頽に及びしか。承応年間に至り、当国安倍郡桂山村長光寺より名翁和尚入院し、絶えたるを継ぎ法門を挙揚し、始めて寺を法地と改む。是を法地開闢開山とす。その後数代を経、延享2年に至り堂宇悉く大破、5代当儀和尚その凋弊を憂い、十方檀越を化し、以て同年8月堂宇再建す。右開闢より歴世今日に至り10有2代、従前は御綸旨拝戴色衣着用の寺格なり。創立今明治17年に至り星霜を経ること278年なり。境内竹木左の通り。
目通り 9尺以上 樅1本
同 4尺以上 槙1本
同 3尺以上 杉6本
竹林 50本
(高部村誌より)
註 この資料は大正天皇御大典を記念して編集された高部村誌に記載されているものでありますが、原本は当山12世実童和尚の調査研究によるものであります。実童和尚はこの外過去帳を整理し鐘楼堂。庫裡。開山堂を建立し、本堂を修理などされました。
以下、青字は、この『保蟹寺由緒』の註に記載されていたものであり、青字と赤字は、私が調べて記載したものであります。
保蟹寺(ほうかいじ)由緒(ゆいしょ:今に至るまでのいきさつ)
大内村 字寺の前にあり。当寺は安倍郡 桂山(かやま)村長光寺末にして、曹洞宗なり。境内広く889坪(約3000㎡)ありて、なお境外(けいがい)反別(たんべつ)1町4反5畝25歩半(約15,000㎡)を有せり。本堂大にして(間口9間半・奥行6間半)。その中に、本尊蟹薬師如来を安置せらる。その由緒左の如し。
曹洞宗 天桂山 長光寺(ちょうこうじ)
〒421-2222 静岡県静岡市葵区桂山220
当山は慶長年間に開創された四百年連綿と法灯を単伝した盆地東側の古刹です。境内には、薬師如来、池月馬頭観音の両尊を安置。池月馬頭観音は、かの源頼朝公愛馬を生んだ里として厚い信仰をあつめています。
夏には長光寺の南側にある桂山の向日葵(ひまわり)畑が人気のスポット。「新たな名所」になればとヤマアジサイを植え整備中。
当寺開基は人皇52代桓武天皇(注1)5世の孫 平親王将門(注2)の後裔(こうえい:子孫) 設楽四郎左衛門なり。
(注1)桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、京都の平安京に遷都したことで有名である。
(注2)平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となり、討伐された(承平天慶の乱)。
初め永禄(織田信長の頃)年中三河国設楽郡設楽村より、本国庵原郡大内村へ来たりて居住す。
後慶長12丁未(ひのとひつじ)年((1607年今より387年前)徳川2代秀忠の頃)に至り四郎左衛門、わが地内なる字富東と言う所に1つの庵室(あんしつ:古くは「あんじつ」とも》僧尼や世捨て人の住む粗末な家。いおり。)を造営し知識を請し、以て村民教化の道場を開かんと欲し、既に土工を起こさんとするの際、折節(おりふし: ちょうどその時。折しも)遠江国より関山派(かんざんは:仏教の一派?)の僧介翁(そう・かいおう?、そう・すけおう?)長老来たりて、四郎左衛門と共に尽力して、同年4月1宇(いちう:一棟 (ひとむね) の家・建物)を建立(こんりゅう:寺院仏閣、またはそれに準ずるものを建てる場合「建立(こんりゅう)」と言います。寺院仏閣関係以外の場合には「建立(けんりつ)」と言います。)す。是(ここ)に於いて介翁(かいおう?)長老、四郎左衛門の請(せい:願い)に応じ直ちに入院(この場合、正しくは『じゅいん』: 僧が住職となって寺に入ること。)す。これを創立開祖(お寺の創始者)とす。
設楽町(したらちょう)について
当時の朝廷は、仏教はえらい人たちだけのもの!として一般の人たちへの普及を禁じていました。そのような時代に行基は、畿内地方を中心に、身分を問わずに仏教を広めて周りました。そのために朝廷からつかまることもありましたが、市民からのの圧倒的な支持によって、東大寺大仏(奈良の大仏)を建てるときには、聖武天皇から大僧正に任命されました。
法名・『保蟹寺殿・茂林・祐繁・居士』について
『法名保蟹寺殿茂林祐繁居士』とは何を意味するのか調べてみました。一般的には、法名とか戒名は死んだ時にお坊さんにつけてもらうものであります。さらに、少し詳しい人は『法名というのは、浄土真宗の戒名のことで、それ以外の仏教徒は戒名と言う。』と回答いたします。
しかし、ブリタニカ国際大百科事典で調べてみると『戒名とは、戒を受けて仏門に帰依した者に与えられる法号。もとは法名とのみいわれた。のち浄土真宗などの無戒の宗が出て,真宗の法名と受戒者の法号とを区別するために戒名と呼ぶようになった。
現在では死後,師僧から与えられる法号という意味に用いる。』と記載されており、昔は戒名ではなく法名と呼ばれたことがわかりました。
さて、曹洞宗(この当時はまだ曹洞宗ではなかったと思いますが)の戒名(法名)の構成 ですが、 戒名は、「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」の順に構成されており、多くは「道号・戒名・位号」となっており、これらは二字名が原則であります。
では、法名・『保蟹寺殿・茂林・祐繁・居士』について、「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」の順に考えてみましょう。
院殿号『保蟹寺殿(ほうかいじでん)』について
「院号」はもともと天皇が譲位したあとに居住された御所のことを○○院と呼んだことから始まる。院殿は武士が天皇と区別するために殿という字を加えたところから出来たもので、最初に付けられたのは足利尊氏とされている。いずれにしろ仏教への信仰心が篤く、寺を建立して寄進するほどの人に贈られたもので、戒名としては最上位のものとされる。今日では教団や菩提寺、国や地域のために特別に貢献した信仰心の篤い信者に対して、その功績を称えてつけられている。
道号『茂林(もりん)』について
「道号」はその人の徳をあらわしたもので、もともとは僧侶や武芸者達が隠棲生活をおくった場所や地名が、その人の号として称せられた呼び名を戒名に使用したことに始まる。茶道や華道、書道や俳諧における名前、雅号が用いられることもある。
戒名『祐繁(ゆうはん)』について
「戒名」は仏弟子として授けられた名である。曹洞宗では道号と戒名の四文字は経典や祖録、漢詩などを参考にしながら対句で熟語とすることが多い。
行号『居士(こじ)』について
「位号」は年齢や性別、信仰心の篤さなどによってつけられる。主な位号は次のとうりである。
<主な位号>
大居士(大姉)・居士(大姉)
大居士(大姉)は院殿号に、居士(大姉)は院号につけられる。
居士・大姉は成人以上の男女で、人格・徳望衆に優れ、信仰心が篤く、社会や教団、菩提寺に貢献した人につけられる。
信士・信女
一般の檀信徒で、菩提寺や僧侶と親しくして信仰を深めている成人以上の男女につけられる。
童子・童女
数え年で三歳から15歳未満の子供につけられる。
孩児(孩女)嬰児(嬰女)
誕生してから二、三歳までの乳幼児につけられる。
水子
死産・流産の胎児につけられる。孩児・嬰児・水子には戒名と位号のみつけられる。(墓相では水子は用いない)
禅定門(禅定尼)
檀信徒の人で参禅に精励し、著しい宗教的境涯に到達した人に対してつけられる。居士・大姉に次ぐ格式である。
ということで、法名・『保蟹寺殿・茂林・祐繁・居士』は最高の位の戒名のようであります。
目通り 9尺以上 樅1本
同 4尺以上 槙1本
同 3尺以上 杉6本
竹林 50本
(高部村誌より)
(注)御綸旨とは天皇の仰せを受けて蔵人所から出す文書。当山で拝戴したのは次の3僧である。
光格天皇より 天明3年3月7日 8世覚門拝戴(1783年)
光格天皇より 天明6年9月18日 9世丹牛拝戴(1786年)
仁孝天皇より 天保15年3月9日 11世実園拝戴(1845年)