(清水歴史探訪より)
「こういう窯を作る技術というのは、当時としてはかなり進んだものだったんですか。」
「そうですね。こういった窯を使って焼き物を作る技術というのは、やはり瓦の制作技術とともに入ってきているんですけれども、それよりも若干先行する時代にやはり、須恵器(すえき)というそれまで弥生土器・縄文土器・土師器(はじき)といった素焼きの焼き物が使われておりましたが、窯を使ってかなり硬い、頑丈な焼き物を焼くという、須恵器というものが大陸の方から入ってきております。
それと同様に、こういった窯も作られるようになって、瓦というのはやはり非常に大きなものですので、そういったものも作れるようになったというのは、やはりその段階でのその新たな技術の導入というものがあったという風に考えられます。」
土師器(はじき)
土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ(土器)・焙烙(ほうろく)に取って代わられるまで生産された素焼きの土器であります。須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、土師器のほうが品質的に下でありました。なお、埴輪も一種の土師器であります。
土師器は、土器を焼くために逆三角形に約30㎝ほどの穴を掘り(この穴が焼成坑です)、その中にスノコ状に太い木を置きます。その上に土器の完成品を置き、その上にわらを置きそわの上を赤土でおおう方法で焼成いたします。
「この窯は、瓦専用だったんですか。」
「そうですね。こういった窯も須恵器と瓦を一緒に焼いているような窯もあったようですけれども、この3号窯(よう)については、ほぼ瓦のみ制作していたようです。」
「これが『東山田3号』ということなんですが、この地域には併せていくつ見つかっているんでしょう。」
「先ほど申し上げた、東名高速道路を造るときに見つかったものが1号・2号。そのあとに発見されたのが3号で、とりあえず発掘調査で構造が確認できたのが5つございます。
恐らく、まだ数基はこのあたりに造られたものと推定されます。今も工業団地の一角になっておりますけれども、昔もやはり工業団地のような状態を呈していたんじゃないかと思います。」
「やはり何かそういう風に集まってきたということは、いい条件があったんですか。」
「そうですね。こういった窯をつくるのには、やはり山の中腹とか、そういった地形も必要ですし、当然、燃料にする木、そういったものの採取も必要です。また、材料になる粘土も必要、ということもありますので、そういった部分で非常にここの場所が適していたということではないでしょうか。あと、もちろん、お寺に近いということも、完成した瓦を現地に運ぶまでの距離が短くて済みますので、そういった条件が重なってこの場所が選ばれたんじゃないかと思われます。」
「当時から、この地域というのは、いろいろ重要なものが集まっていたんですね。」
「そうですね。このお寺が造られたということが非常に象徴的な部分ではあるんですけれども、この白鳳時代よりも先行する古墳時代ぐらいからかなり先進的な、中心的な地域だったという風に言えると思います。」
「この頃から、人の住みやすいところだったんですね。」
「そうですね。庵原地域ということでいいますと、さらにその前の縄文時代ぐらいからもうすでに人が住み始めていたというのが、発掘調査等の結果、分かっております。川も流れ、山も近く、また海も近く、非常に人が生活するには適した地域だったということは言えると思います。」